人はなぜ山に登るのか

「そこに山があるからだ」
と登山家が答えたという話はあまりにも有名。
これが名言として名高いのは、それ(ここでは山に登ること)が他の何者にもよらずそれ自身として価値があることを、極めて簡潔に言い表すことに成功したからだろう。


『二コマコス倫理学』とはアリストテレスの言葉を息子のニコマコスが編纂したものらしいが、この中でアリストテレスは善や幸福、愛や魂といった今となっては安っぽいドラマか宗教でしか語られることのなくなった諸々について考察している。

なかでも最終の目的があるとするならば(実際なければならない。もしなければ目的の系列は無限に進むことになり、私たちの欲求は空虚なものになるから)、それこそは最高善でなければならない。
最高善は政治(ポリス)の領域にある。善こそが政治の目的でなければならない。したがって、ここでの研究は一種の政治学的なものといえる。
〜中略〜
他方、最高善は究極の目的だ。究極ということの定義は「常にそれ自身として望ましく、決して他のもののゆえに望ましくあることのないようなもの」である。この条件を満たすと考えられるのは幸福(エウダイモニア)である。

幸福が究極の目的である理由、それは私たちが幸福を望むのは幸福それ自体のためであって決して他のためではないからだ。私たちが名誉や富を求めるのも、確かにそれらのためでもあるが、同時に、それによって幸福となると考えているはずだからだ。
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-aristoteles-ethica-nicomachea/

人間の行うあらゆる行為や選択に「善」への希求を見て、それらの求める最終の目的は最高善にあるとする。
そして最高善とは究極の目的と考えられる幸福そのものである、というのが『ニコマコス倫理学』における最初の大前提だ。
現代人ではもにょもにょと口ごもってしまいそうなことをずばり言い切っていて痛快。
科学は始点にはトートロジーを認めてるのに、終点としてはなぜか認めない。というか終点を打とうとしない。
アリストテレスはここでする話は政治に関するものであり「素材の許す以上の厳密性を期待すべきではない」と制限つきの話であることを断わっている。さらに最高善は共同体として最終形態の「ポリス」に属する、と本人はそう信じていたのだろうけども今となってはそういう時代だったという他ない、意図的ではない制約もあった。
要するにそのような様々な制限があることを前提にすれば、最高善やら究極の幸福を規定することは可能なのだ。
そして「常にそれ自身として望ましく、決して他のもののゆえに望ましくあることのないようなもの」はトートロジカルに表現するしかないものなのである。



中庸の徳

なぜかアリストテレスの考えは「徳」「中庸の徳」と儒教の言葉で訳されている。
儒教における「中庸の徳」は結構難しい概念で単純ではないらしいが、一般的な理解に近いのはアリストテレスの考えのほうだろう。
苦痛への感受性が不足していると「無謀」過剰だと「怯懦(おくびょうで気の弱いこと」適度にあれば「勇敢」、というような感じで過不足のないものこそがすばらしいと考える。
面白いのは「徳」に対する考え方で、卓越性とも訳されているそれは、他の動物にない人間固有の能力、機能であるとしている。
そしてそれを共同体のために発揮し役立てることがすなわち善であると。
このあたりの言葉の関係を自分なりに要約するとこうなる。
人間の体は細胞からなっているが、それらは集まって特定の機能を果たす役割を各々担っている。例えば心臓は一定のリズムで収縮し、血液を全身に循環させる役割を持っているが、心臓が他の臓器にない「卓越性」をもって体の中でその機能を十全に果たしていること、がその人にとっての「善」である。一方体を激しく動かしたりすると鼓動は早くなったりするが(それは全身に酸素が「不足」することなどによって起こるが)そういった事態は速やかに収束させ、早すぎず遅すぎない一定の適度なリズムをなるべく保つことが心臓にとっての「中庸の徳」となる。
そしてこのスケールにおける最高善とは、そのように様々な臓器などが適度に活動連携することによって統一性をもったある人間が「人間的活動によって」幸福を目指すことそのものである。
ここでは「なぜ山に登るのか」に替わって「なぜ心臓は脈打つのか」と問わなければならないだろう。


と大体このような理解をしたが、アリストテレスの考えはそのまま現代に応用するわけにもいかず、そこには様々な疑義がある。

  • なぜ「善」は明らかに中庸の徳ではない「最高善」を目指すのか。ちょうど良い「善」ではいけないのか
  • 幸福を目指す政治という観点から民主制は最も良くないものとされている。現代ならポリスに替わって民主主義国家に「最高善」がある、というしかないがこれは現代人でも無理がある。民主主義ではなぜだめなのか
  • 当時は奴隷制であったことと関係してると思うが、幸福以前に生き残るために必要な諸々に対してほぼ言及がなく、明らかに低劣なものとして切り捨てている。それらを奴隷などが担っていたからこそ、貴族は「真」「善」「美」など生きるのに必要ないことを追求できたし、アリストテレスもそうだ。こういったものはとても許容できるものではないが、一方で現代日本の貴族的心性のなさ、はいかにもつまらない。人間を奴隷にすることなしにはこのような心性は確立できないのか
  • 今は「生き残ること」と「幸福の追求」が激しく対立している。どちらかを取るとその分だけ片方が失われてしまうことが多いが、なぜこれらは一致しないのか

アリストテレスに引っ掛けてこんなような普段言挙げされることの少ない善やら幸福やら愛などについてこれからちょくちょく考えてみることにする。

(3)人間にとっての温度とは何か

  1. http://matome.naver.jp/odai/2139987707849953901
  2. お前ら「温度」って何かきちんと説明できるの?
  3. http://homepage3.nifty.com/iromono/PhysTips/maxtemp.html
  4. 温度とは何か:負の絶対温度をめぐる疑問など - Active Galactic : 11次元と自然科学と拷問的日常


温度とは何かという話は科学的には驚くほど難しい。
分子の振動が熱になって、この熱から温度に到達するまでの道のりは果てしなく、4に至っては何一つとして理解できない。
しかも最終的には温度とはこれだと指し示せるものはないという結論のようだ。
こういう話はどこまで人間的に理解できるだろう。分子の振動が熱になるというのは、人間も運動すれば代謝が上がって暑くなる程度に理解してるけど、分子レベルはもうすでに人間の実感を超えていると思う。
生物を見るときの最小単位は細胞なので、そこが実感的に語れる限界だろう。

http://enokidoblog.net/sanshou/2013/08/9616

『温度』というものは、分子の運動から現れる二次的な概念でした。基礎理論の段階では存在しないので、私たちの幻想であるといってもよいでしょう。


物理学が幻想と結論づけたところで、人間にとっての温度が死活問題であることに変わりはない。
恒温動物の人間にとって温度の調節は生きていく上で必要不可欠な要素なのに、なぜか五感の中に温度への感受性がない、なんとなく触覚に含めてしまっているのはどういうわけだろう。
風邪を引くと熱が出る、というのはウィルスがもたらした症状ではなく、高温にしてウィルスの活動を抑え同時に白血球を活発にし殲滅する、というミツバチがスズメバチを撃退するやり方に近い驚くべきシステムだが、けっして意識してやっているわけでなく勝手に熱は出るし、かきたくもない汗もかいてしまう。
つまり温度に対するリアクションの大部分が無意識下で自律的に行われているから、というのがその理由の第一。
もう一つは温度の感受性が暑い、寒いという高低だけでバリエーションがない(ように思われている)というのもある。音なら同じ音程でも質感はまったく異なるしそのバリエーションの豊かさ、それを聞き分ける聴覚の繊細さは言語を成立させてもいる。(ちなみに「高低」という概念があるのは視覚と聴覚と温覚だけだ。これはなぜなのか)
でも考えてみるにうっすらとなら温度にも質感はあるんだよね。
例えば同じ温度でも気温と水温はまったく違った解釈がされる。お風呂は40度前後で体温の限界に近い数値がちょうどよくそれ以上は熱くて入ることもできないが、気温ならまだまだ全然余裕。
というか日本語で「熱い」と「暑い」を書き分けるのは質の違いをまさに表しているわけだ。
ただし同じ温度、というのは客観的尺度としての温度計があるから分かるわけで、人間の内部的温度計にとって重要なのはそれが生命維持にどのように関わるかなので、水温を高く感じるのは発汗による放熱ができないからとかそういう理由がある。つまり同じぐらいの生命的危機を同じ熱さとして感受する必要があるわけでこれは質の違いというより物差しの違いといったほうが的確かもしれない。
さらにいうと大気と水の違いは触覚で感受できるものなので、温度のみからこれらを区別できるかは不明。できそうではあるけどね。熱の移動スピードとかで。
こういう感じに温覚と密接な関係を持っているのは触覚以外に味覚もある。味は冷たいと薄く感じ温かいと濃く感じる。冷めるとまずく感じる料理はたくさんあるし、逆に冷たくないとおいしくないものもある。明らかに人間は温度を味わっているわけで、他の感覚器と独立に結びついている時点でやはり触覚と温覚は分けて考えるべきものである気がする。
で質について考える上で面白いのは「温もり」という感覚だ。これは要するに自分と同じぐらいの温度の、それも同じような生き物に対する感覚だろう。哺乳類などという科学的分類など知らなくても、温もりを感じた時の、ある種の一体感というか、安心感というか、ああ同じ生き物なんだなと実感するあれにはかなり特別な意味づけがされているのは間違いないだろう。
というわけで一応温度にも多少の質感、バリエーションは感じ取ることはできると思う。




***




五感に入っていない以上にあるいは問題かもしれないのは人間の三大欲求にも入っていない、ということではないだろうか。
三大欲求とは生命維持に不可欠な、それをしなければ生命として死んでしまうという本能的な、そして最も大事な欲求ということになっているが、オレには部屋で好きなだけぬくぬくしていたいという強い欲求がある。
そんものないよという人にも住処はある。巣を作る生き物にとってはそこがその生物にとっての最適な温度に保たれている必要があり、安心感と最適な温度は密接に関係している。くつろげる空間や瞬間は人間が生きていく上でとても大事な要素だ。
そんなことしなくても死なない、という人は人間が自殺する生き物であることを忘れている。生命維持について考える時、体温を一定にする必要性とそのための複雑かつ多岐に渡る機能も大事だが、人間が社会的動物であり、その中で生きていくほかない存在であることも同じぐらい大事なことで、社会的死は生命としての死に直結しやすい。
人は温もりを失って死ぬ。
これは字義通りの意味であるし比喩でもある。


というわけで「ぬくぬくしたい」には「食いたい」「したい」「寝たい」の三大欲求に十分並び立つ資格があるとオレは思うのだが、なぜこの欲求がはっきりと確立されていない、価値が認められていないかと考えるに、それは温覚と同じように他の欲求にまぎれてしまっているせいだろう。
寂しい時に温かい物を食べると心が温まる。恋人と抱きあっても、ベッドでぬくぬくしていても同じ。
温度は三大欲求のそれぞれに密接な関係を持っている。
このことは見ようによっては並び立つ以上の意味がある。
人間は温まるものをこそ欲しているんじゃないだろうか。


温度への感受性は明らかに過小評価されている。
人は好きな時にいつまででもぬくぬくできる場がありさえすれば自ら命を絶つなんてことはしないように思うし、人間的な欲求の基礎は温度にこそあると思う。

(2)文化人類学的の不能

こないだテレビ観てたらなぜか放送大学でチャンネルが止まって、それが文化人類学の講義だった。
インディアンの古老に話を聞きにいった様子が映し出され、やはりというかなんというかホントに好きだね。インディアンの古老が。
それで食べているプロの古老とかもういるんじゃないかと疑うレベル。
で、ふんふん聞いてたら最後に講師の人が
「最近この界隈では文化という相対主義的な手垢にまみれた言葉でなく『存在論』というのが流行ってます」
というような意味のことを言っていて、もはや哲学になってるな、と思う。


講義「なぜ帰宅後にすぐ手を洗うのか――文化人類学の効用」 小田亮 - garage sale

 さて、家の外から帰ってきたとき手を洗うという日本の習慣も、トレーラーの外で排泄したり体を洗うという英国のジプシーの習慣も、居住空間の内と外とを象徴的に区切るものだということを見てきましたが、それらは、合理的根拠のない「迷信」などではなく、空間を区切るという「表現行為」なのであり、自分たちの環境をそのように区切って表現しつつ、自分たちの世界そのものを作り上げていく行為なのです。したがって、その世界の区切り方に根拠がないからといって、それは「迷信」だからやめるべきだということにはなりません。もともとどのように自分たちの世界を区切るか、そして世界を意味あるものに作り上げるかといったことに、このように区切らなければならないという根拠などないのです。大事なことは、根拠のない「迷信」を捨て去ることではありません。そうではなく、同じように根拠がないのに、自分たちの区切り方や世界の作り方は合理的な根拠があると思い込み(上の例で言えば、帰宅して手を洗うのは衛生学的な根拠があることだと思い込み)、そのようには世界を表現しない文化や人びとに対して、「迷信」に囚われた人びとだとか衛生観念がない不潔な人びととラベリングをすることこそ、「迷信」に囚われていることだということに気づくこと、これが大事なのです。

日本人が帰宅後すぐ手を洗うことの文化的意味についての講義、ということだけど主題はともかくとしてこの部分が気になった。
文化人類学的な考え方を身に着けるということが『個別の文化としての自文化の相対化』であることは理解できる。
理解はできるが自文化を相対化する視点、立場に立つことは極めて危うい。
いったいそれは「どこ」から見た視点なのだろうか。
自文化と異なった衛生観念を持つ人々を不潔と見なす感性こそを「迷信」と切って捨てる。
これは日本人が日本人に対して言っているからそれほど違和感がないが、もし日本人の文化人類学者がジプシーの人々に対して同じことを講義し「啓蒙」したらどうなるだろうか。
つまり「あなたがたは白人の生活習慣を自分たちの考え方と異なるからなどといった理由で汚らわしいと言うが、それは非常に良くないことで、迷信に他なりません」と言ったとしたら。
もちろん文化人類学者はそんなことは決して言わない。いや言えない。
インディアンの古老の話がいかにスピリチュアルで、近代人から見ればばかばかしい話だったとしても、決して否定することはないし、相手の立場に立って理解しようと最大限努める。
その様は精神病患者に対する精神科医の立場にとてもよく似ている。
違うのはその「症状」を無くすために精神科医が薬を処方するのに対し、文化人類学者はタバコやライターなどをお礼に差し出すことぐらい。
文化人類学のやろうとしていることは文化交流や相互理解ではなく、観察者からの影響を最大限最小に抑えたなるべく純粋なサンプルの採取である。
もしジプシーの人たちに「自文化を相対化する視点」など与えてしまったら、その価値観、世界観は大きく揺らぎ変質してしまう。
だから文化人類学者は薬に相当するような相手を変えるすべを何も持たず、ただ黙って話を聞く以外何もできないが、実は精神科医だって事情は同じであったりする。


『理不尽な進化』によると科学とは、特定の人や文化からの視点を離れて、そして人間的視点からすら離れて対象を「絶対的に」捉える営為であり、方法である。(完全な視点=あらゆる視点からの描写、と対照的)
精神病理学もまた科学であるゆえ「症状」について正常を定義することはできない。つまりは自らの精神状態もまた一つの症状に過ぎないという、文化人類学者にとっての文化と同じような相対化した視点を基本とする。
なので本来的には精神医学という異常を正常に戻す営為は成り立たないのであるが、ある特定の症状を持った人が社会で生きていくことが非常に困難で本人(もしくは社会側)が困っている、という状況が薬を処方して相手を変えていい根拠となっている。
だがドラッグを取り上げてしまえば、精神科医にいったい何ができるというのだろうか。
ヒトはなぜ衣服を着るのか 小田亮 - garage sale

専攻が文化人類学だと、世界の珍しい衣服などについて教えてほしいという依頼や問い合わせを受けることがある。人類学者ならば、例えばマルケサス島の人々の身体装飾など風変わりな「衣」の話ぐらい知っているだろうということなのだろう。けれども、そのような話の大半はいまや過去のことになっている。そこで、今はどこでも洋服を着ているし、若者たちはどこでもTシャツにジーンズですよ、と答える


***




そもそも絶対的視点に立つ、立ち続けることは極めて困難であり、それは長年の修練とそのための多大なコスト(一人の学者を作るのにかかる教育費など)による方法論やスキルがあって始めて成立するものだ。しかもそのようなきちんとしたスキルを持ったプロの学者にして中沢新一のように「あっち側に行ったっきり」になってしまう人もいる。
その「どこからのものでもない視点」は一人の人間としての立場を危うくさせ、不安にさせる。
文化といわず『存在論』などと哲学みたいなことを言い出すのは、対象でなく科学者自身の存在論的不安の表れ「症状」なのではないかな。


今ではその科学的成果は社会の良識になっている。
「色々な価値観や文化を認めよう」「多様性はとても大事なことだ」
学問的修練や方法論のない普通の人にとってのそれは、何の内実のあるものではない空疎なスローガンであるが、実は修練を積んだ学者にとってもそれが空疎であることになんら違いはない。
そこに人間的な価値や意味を与えることは科学の仕事ではないのだ。


「説明と理解」問題に照らせば面白い事実がある。
精神病者にその病気の学問的説明をどれだけして、相手がそれをどれだけ詳しく知ったところでそれだけでは症状はなんら改善されないということ。
これは説明=科学的分析と理解=人間の世界体験との間の断絶を示すもっとも良い例だと思う。


http://turedure4410.blog32.fc2.com/blog-entry-1121.html

(1)哲学的問題

http://www.fbs.osaka-u.ac.jp/labs/skondo/saibokogaku/kairoudouketsu.html


哲学は非常に難解であるにも関わらず、なんとか理解してようやく辿りついた結論らしきものはたいてい「当たり前」なものでしかない。これはもうすでに哲学的結論を前提にした世界観の中に人々が生きているから、ということのようだ。
哲学って一見するといかにも人間的行為にみえるが、そこでは非人間的努力が必要とされる。厳密で揺らぎのないよう定義された言葉をもちいるが、それは生きている人間の言葉ではない。フローなところの一切ないストック型言語、というべきか。
吉川浩満著『理不尽な進化』の中で物理学者マックス・プランクの「自然科学の思考は、あらゆる人間的要素を除去しようとする恒常的な努力にほかならない」という言葉が紹介されているが、哲学もやはりこの系譜に属しているのだろう。
『理不尽な進化』の終章、生物学者グールドを主人公とする「理不尽に対する態度」の部分がとても興味深く、しかし哲学的で難しい部分を含むためなかなか読み進められないでいる。
なのでまずは哲学によって解明が進んでいるらしい「説明と理解」問題について自分なりに色々考えてみる。
ここでの「説明と理解」は哲学のそれとは似て非なるものである可能性大なのであしからず。



芸術作品をいくら分析、評論してもその芸術作品が与える感動を超えることはできない

説明と理解とは端的にはこのような問題である。分析評論が「説明」、芸術作品が与える感動が「理解」。
以下思いつくのは


・理性と感情
言語化できるものとできないもの
・客観的記述と主観的経験
・脳の発火の軌跡とクオリア
・変わらないものと変わるもの


よくある問題ではあるが、これが進化論とどう結びついてるのかがこの本の肝で、さらにここに新たに「偶発性」という概念がどう織り込まれるのかというところで止まっているのだが、一先ず芸術について。


あらゆる芸術作品は人間によって人間のために作り出されている。
そして芸術作品はそれそのものに価値があるのではない。
それを見たり、聞いたりした後、ないし途上の人間の内部的変化こそが価値である。
従ってその良し悪しは観る前と後の変化の差分、その大きさで測られるもので、すべてはそのきっかけであり、契機となっているに過ぎない。
その意味では例えばドラッグがもたらす人間の内部的変化も芸術となんら変わるところがない。
現にドラッグカルチャーとして一大ジャンルを築いているが、ある人がゴッホの作品に感銘を受けたこととドラッグで劇的な高揚感を得るのとに、貴賎は存在しない。


ただ一点、しかし極めて重要な違いがある。
それは芸術作品が「人を選ぶ」のに対して、ドラッグは否が応でも誰にでも「効いてしまう」という点である。
ゴッホの作品はオレにとってその辺の飯屋の壁に飾られているのとなんら変わることのないただの絵だ。何の感慨も感動ももたらさず、それはただの紙と絵の具によるひまわりの絵であり、そういう人と絵があるという「情報」である。
一方ドラッグはやったことがないのが残念だが(ゴッホの絵にかんどうできないのと同じく)それは確実におれにも効くし、おれの内部に大きな変化を及ぼすのは間違いない。
このことを基礎工事のない建築に例えてみる。
基礎工事がされていようがされていまいが、家を建てることはできるし、できた家の違いは一見して素人には分からない。
だが時間が経つにつれ、その違いは明白になっていく。
その加重で年々ゆがみが生じ大きく傾いていき、地震や大雨などの環境の変化にたいして極めてもろく、場合によってはあっという間に崩れ去ってしまう。
つまり芸術的な感動は基礎工事という「準備が整った状態」の上にしか成立せず、それの無いところには建築されない。
だからこそ安心してその内部で快適な生活を営んでいくことができ、生活を豊かにするものでありうる。
逆にドラッグが時に人の人生を破壊する事態になるのは(その中毒性を別として)それが無条件に暴力的に強制的に建築されてしまうせいで、内部的統一性やバランスを崩す要因になってしまうからだろう。


この特質をもって、芸術はドラッグに対して圧倒的な優位性をもっていると言っていいと思うが、ただし、暴力的強制的という性質は人間の変化としては当たり前で、決して選択的ではありえない。
ドラッグを飲むかどうかと違い、ゴッホに感動できるかどうかを人は選ぶことができない。もちろん教養は必要な場面もあって選択的に教養を積むことはできるが、「芸術作品をいくら分析、評論してもその芸術作品が与える感動を超えることはできない」わけで教養があれば理解できるというわけでもない。
それは結局のところ、人間の持つ欲望が関係している。
何を食うか、は選択可能だが何かを食いたいという欲望は勝手に生じてしまうし、女に欲情するのに意味など必要ない。ハイヒールに欲情する人間もいる。
だから結局はゴッホにたいするフェチズムも身を持ち崩す要因になりうるわけだが、ともかくも人間の内的変化の要因は対象がなんであるかを問わず、そして起こるかどうかは非選択的であるが、同時にその人にしか起こらない個別具体的な経験でもある。


「説明と理解」が問題でありうるのは、説明体系たる科学の方法論による進歩(それも急速な)がなんでもどんどん説明し、主観的経験とその意味を脅かすからである。
ゴッホの絵画を歴史的文脈やその技法でその意味と価値を「誰もが分かるように」語れば語るほど、それを観た時の私の内部で生じたあの感動、その経験の意味が減ずる、もしくは外部に流出してしまうかのように感覚される。
それはあなたという鑑賞者がいて、その内部を大きく変容させ、そしてそのことによって始めて価値が生じたはずなのに(売れない画家のまま生涯を閉じたゴッホはそれを見て感激したに違いない)それは今や私という鑑賞者なしで、無関係に客観的に価値が成立している。誰もが認めざるをえないという形式によって。
ゴッホはこれほど有名なので、それは個人のみならず、人類の認識さえあるいは変容させたといって良いかもしれないが、すでに現在はゴッホによって変わった世界にあり、変わる前の世界は失われている。
なのでそもそも変容の最中の感動にはほど遠い、という事情もそこにはある。



アリにとっての情報と知識

http://www.antroom.jp/cms/page/ant004/
アリは様々な手段でコミュニケーションをとっていて、人間に勝るとも劣らない社会的な生き物だ。
どこどこにエサがある、という情報はなんらかの形で仲間に伝達される。
その情報を受けたアリはそれによってその後の行動が変化する。
情報はアリの脳?で解釈されなんらかの行動として出力される。
エサがあるという情報もアリを変えたといって良いが、それら一連の行動後のアリと、その前のアリとの差分はほぼない。
ところがこの繰り返しのなかで一匹のアリが、どうもエサの見つかりやすい場所とそうでない場所がありそうだということで、人海戦術的な探索をやめて、予測的に行動し始めたらどうか。
そしてそれがうまくいきそのアリの種の行動様式として定着したら、それは「知識」といってよく、そして知識を得る前と後ではアリはその存在様式とでもいうべき何かが変容していると考えられる。要するに情報を解釈するアリの内容それ自体が変わったのである。
以下「情報」と「知識」はこのような意味で使い分ける。


何がおれにとって情報となるか知識となるか、はおれ次第である。
芸術体験と同じく選択はできないが、かといってあらかじめ何かが情報であったり知識であると決まっているわけではない。
今までの人生経験なり記憶なりの積み重ねてきたもの次第、というべきか。
一時的に観れば何だって変化させている、とも言えるのだが、結局は何らかのきちんとした基盤なく起こった変化は、歴史の風雪に耐えられず元に戻る。
人間の内部は驚くほど環境的であり複雑怪奇であり、それらがバランスと統一性をもって、いつも変わらぬ「オレ」を立ち上げているのは奇跡のようでもある。
が、結局のところ自分の変化に自分で気づいてないだけの話でもあったりする。
これは有名なバレリーナの影絵の錯視に通ずるが、一度そのように見えたら、かつて違うように見えていた感覚は失われてしまう。
つまり選択できないだけでなく、どう変化したかを自分で把握することさえ困難なのだ。
まぁ人間の内部なんてものはチューリングテストよろしくその出力から推察されるだけのものでしかないのかもしれないが。


問題は科学的成果である知識である。
個別的には気に入らなければ情報として扱って構わないが、科学の方法は社会に対して無条件に強制的な変化を及ぼす。
その変化の軋轢がガリレオを死刑にもするし、美女を断頭台に立たせたりもするが、とにもかくにも一旦成立したらどうにかしてそれに人間は適応しなければならない。なんせ歴史や個別性を超えていつでもどこでも成立してしまうのだからね。それは予め歴史の風雪に耐えるように設計されている。
それは社会にとってはドラッグに近い。社会の準備など待たずに効いてしまうので、例えば核兵器の開発のように危機的な状況も生み出す。
「自然科学」とはよく言ったもので、それは非文脈的な自然災害のような理不尽さをもって社会を変えうる。
なんとなく前から、このトータルなバランスを考えない、優先順位という発想のない知識の発展は迷惑極まりないと思っていたのだが・・・
しかしこの本はその先、理不尽さや偶発性こそが生物の「歴史」そのものであり(グールドの主張)あるいは人間性というものの最後の砦である、という話になりそうな展開。
だがもう少しこの「説明と理解」について考えたいのでまた改めて。

喫煙とオナ・・・

http://cruel.hatenablog.com/entry/20140620/1403251945


おれは喫煙者なのであんまり言いたくないが、喫煙とオナニーは似ている。
大人のおしゃぶりという話もあるがまぁ同じようなもんだ。
大体今は動画派が多いのでその限りではないが、かつてのオナニーには大きな想像力、シミュレーション能力、物語性が必要だった。
同じ能力を最大限に発揮させるべき作家にヘビースモーカーが多い(かった)というのは、手段と目的の違い。
メンソールを吸うとインポになる、は都市伝説らしいが、すっきりする快感に近いものがあるのは事実。
今では人目に隠れてこそこそ吸うようになったのでなおさら似てきている。


どちらも別にやらなくてもいい無益な行為である点に違いはない。
逆に言うと、禁止された時に反論する材料に乏しい。
ロリコン規制への反対派のように、禁止すれば性犯罪が増える、という主張は成り立ちそうではあるが、堂々と主張できるたぐいのものではない。男の原罪を認めるに等しいのでより白い目で見られることになる。
タバコに依存し中毒するのも、ポルノが無ければ自制できない意思の弱さも人間の弱さに違いはないので、規制派に対して共闘できそうなもんだが、おそらく一緒にされたら互いに怒り出すだろう。あんなもんと一緒にするなと。思うに層が違いすぎる。




***




世はクレーマー社会ではあり、典型は学校と病院だろう。
医師は大きな訴訟リスクと戦わざるをえない。人はもはや自然には死なず、どんな死であろうとも誰かがどうにかすれば助かった命なのだ。
そうして最終的にはチューブを抜くかどうかという恐るべき決断が家族に託されることになってしまう。
学校で怪我をすれば、誰がやったかが問題にされ、不行届きで先生が糾弾され、怪我をするような遊具が悪者にされる。
かといって黙っているといつの間にか自分の責任にされかねないので、油断ならない。
一応責任は上に上に行くという法則もあるが、さしたる反論ができないところにも行き着く。


この責任を巡るゲームに有効な方法はどういうものだろうか。
一つは事なかれ主義を貫き、黙って騒がず、周囲に影響力を及ぼさなければ責任が巡ってくることもない。
ゲームに適性があれば、どんどん主張し責任を跳ね返し自己を拡大していくことも可能。
別にこれは今に始まったことでなく、いつでも有効な方法だ。
後は坊主に供養してもらうか、神主にお払いしてもらうかして責任(穢れ)そのものを天に返すというのもあるが、最近は流行らない。
「水に流す」ための振る舞いとしてネットに放り込むという手がちょっと前まではあった気がするが、最近は輪廻して現実にまた返ってきかねないので安易にはできなくなった。


かくしてそれはどこにもいかずぐるぐる廻って吹き溜まり、ふとしたきっかけで、そして予想外の場所で火山のように暴発するが、富士山を信仰する日本人なら別に驚くに値しないのかもしれない。

数についてのあれこれ

リンゴがテーブルにいくつか転がっているのを数えるとする。
1、2、3・・・
この時リンゴはすでに数え終わったもの、現に今指差し数えてるもの、これから数えるものに分けられ、それぞれは過去、現在、未来に対応する。
耳で聞き取る音には時間の流れの概念が織り込み済みだが、視覚にはそれがあらかじめ備わっていない。
荒又宏がピカソの「眠る女」の指が一本多いのは手を動かしているから説を唱えていたが、マンガでも使われるこういった技法は瞬間的な現在をしか表せない絵に動きを与え、時間の流れを生み出す為に使われる。
物を数えだすと、例えば左から右へと数えていれば、視覚の像も左から右へと流れていく時間感覚にそって分割される。そうでなければすでに数え終わったものをまた数えてしまい永遠に終わらないかもしれない。
映画「レインマン」に登場するサヴァン能力者は床に散らばったたくさんのマッチの数を瞬時に数えることができた。数本ならともかく何十本とあるものを瞬時に数えるというのは、普通の時間感覚をともなった数え方ではおそらく無理だろう。
見ることと数えることが一致している、数えるために見ているというぐらいに何かに特化した能力だ。
しかし孔雀のメスがオスの目玉模様の数の多寡を知るのもまさか数えているわけもなく、サヴァンの研究でもこういった能力は元々誰にでもあって、普通はそれが抑制されていると考えられている。

http://www.amazon.co.jp/%E3%81%BC%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%AF%E6%95%B0%E5%AD%97%E3%81%8C%E9%A2%A8%E6%99%AF%E3%81%AB%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%82%8B-%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%A1%E3%83%83%E3%83%88/dp/4062139545

著者のダニエル・タメットは、数学と言語に特別な才能を持っていて、この人には数字は様々な質感をともなって感じられるものらしい。
要するに数学を解釈するのに、普通は使わない視覚や嗅覚や触覚の脳の領域まで使っていて、そしておそらくは言語と数学を同じものとして同じ領域を使って解釈しているようだ。
ここで思い出すのは養老先生の、言語は視聴覚の結合によって生まれた説である。
「イヌ」という音を聞いて、視覚的な「犬」をイメージするというのも一種の共感覚と考えることもできる。
共感覚シナプスの過剰結合によってもたらされるとして、しかしそれがまったくないと言語それ自体が生じないのかもしれない。


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もぐらが地中に潜り、こうもりは夜に行動するようになったことにより目は退化し殆ど使わなくなってしまった。
もぐらが驚異的な嗅覚により、こうもりが超音波の反射を聞く特異な能力によって、彼らはまるで見えてるがごとく自由自在に行動できている。
匂いや音を解釈するのに、視覚に使っていたはずの領域を合わせて使うことで、能力がブースとされているのかもしれない。サヴァン能力者のように。
彼らの主観的クオリアがもしあるとすれば匂いを見ている、音を見ているという感じなのかもしれない。
人間の言語操作能力、コミュニケーション能力もあきらかにブーストの効いている能力だ。
それは単に大脳新皮質の拡大によるのか、それとも何らかの能力の欠損によるものなのか。
前者は当然なので後者について考えてみたい。


他の動物と比べた時に、人間が明らかに劣っているのは運動能力である。
同じ体重のゴリラと人間ではケンカにもならない。
二階から猫を落とすと空中で姿勢をひねり、四本足で着地し何の怪我もしない。(誰に教わったわけでもないのに)
イルカショーで見せるイルカの曲芸は修練もあるのだが、まずあの狭いプールで勢いよくジャンプして間違ってプールサイドに乗り上げるということがない。(というか間違ったら多分即死)
彼らは座標の計算はしないし、物理学も必要ない。
運動には考えるだけの時間もない。
少なくともマンモスを槍で倒せるようになる以前には人間とてこういった運動能力がなければ生き残ることはできなかった。
それは次第に失われ退化したけども、その為に使っていた領域は残る。
これを別なものに使えば能力はかなりブーストされそうだ。
あるいはその辺に計算能力の出所があるんではなかろうか。
まぁ人間は異常に器用でもあるので普通にそっちに使われてる可能性も高いけども。

数と言語


「神は細部に宿る」の出典はよくわからず最初に誰が言い出したかはわからないようだ。
一応建築デザインの世界の言葉としてでてきたのが有名になったきっかけらしい。
http://okwave.jp/qa/q4385241.html


昔からオレは細かいことが気にならないタチで大体物事を大雑把にしか考えていない。
年をとるとなおさらその傾向は強まり、たいがいのことはもはやどうでもよくなってくるのだが、この世でもっとも大雑把なものの考え方といえば、それは間違いなく「数字」だろう。
リンゴも犬もニュートリノでも、この世に存在するあらゆるものをなんだって「1」という概念に含めてしまえる。
とある小学生が粘土の1と1を合わせたら1ではないか、と反論したという都市伝説があるが、実際よく考えると難しい問題だ。
大きさが2倍になっている、という答えはありうるが普段犬が2匹という時にはその2匹がチワワとチベタンマスティフであることが問題にされることはない。「海」はその定義上あきらかに一つでしかありえないが、生活の利便上いくつもの〜海に分類されている。
とにかくできうる限り徹底的に細部や詳細を捨て去ることによって数字の「1」は確立していて、「1」とはほとんどクオリアのことである気がする。ほらわかるだろ、お前が持っているあの感じ、それが1なんだよ、としか人に伝えることができなくて、概念的に説明しようとすると難解極まりない。


人間においては多分間違いなく言語が先に成立してそれから数字的概念が後から発生したのだろうが、これは数字を道具として使う必要性があったからだろう。「リンゴ持ってきて」ではどんだけ持って行けばいいか途方にくれる。ただこれだけのことに数字がないだけでとても不便なわけ。
犬ならリンゴは持っていける数がそもそも限られるので数を指定する必要性がほぼない。カラスほどの知能では多少数えられるという話があり、孔雀のメスはオスの羽の目玉模様の数の多寡を瞬時に見分ける能力を持っているが、これらはあくまで例外であり動物には数を指定しなければ困る局面が少なく、言語を操る人間には大いにあった。
つまり言語能力がある程度発達すると数字が無ければ困る局面が増え、言語に補佐的な役割を持つものとして数字が生み出され使われていくことになったのだろう。10ぐらいまでしか数えられず、後は「たくさん」と表現する部族があるらしいが、10ぐらい数えられれば生活の用は足りる。
http://www.eonet.ne.jp/~shiyokkyo/rizhong/kazu.html
というか日本語の「ひい」「ふう」「みい」・・・や「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」・・・も10までしか数えられん。
やはり「繰り上がり」という概念に到達するにはひとつ大きな壁があり、これも言語レベルというか文化レベルの発達による必要性が生み出すものだと思われる。




まとめると人間において言語無くして数字の成立はありえず、一方数字の概念を言語的に説明するのは極めて難解ということ。
ここまで「数字」という表記をしてきたけど、これは言語体系に含まれるという意味が強いのでここからは「数」ということにするが、これらのことは数と言語とはどちらかがどちらかに含まれる関係性ではなく、本来は互いに翻訳不可能な別体系のものではないかということを示唆している。
(このことに関しての公式見解をおれは知らない。この二つの関係性、もしくは関係の無さ、はすでに分かっていることなのかも知れないけど、しかしそれが分かるということは「言語的に」分かるということなので手に負えない。つまり数が言語に含まれた時にしか確定できず「数」の側からの反論はない。)
それを別方向から示しているのがコンピュータの存在だろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF
wikiの歴史の項目が面白いが、現在0と1の二進法によるノイマン型を基礎とした電子計算機は人工知能にあと一歩と迫る勢いで進化している。
コンピュータの成り立ちは人間におけるのと対照的に、まず数によって成り立ちその発展の後に必要性に迫られてプログラム言語が生み出されている。コンピュータは本来的には言語を必要としないが、それでは人間が扱いきれないので人間にも分かるように言語に翻訳して「あげている」んですね。ここでは道具として扱われているのは言語(人間)のほう。
もちろん言語無くして、人間からの働きかけなくしてコンピュータは発展、展開しないけども、それができれば人工知能と言っていいわけです。
いずれにせよ言語なくして数によってのみ成り立つ存在というか世界が現実にできそうだといわれている。


もっともそこで成立した「知性」が人間に分かるという保障はない。
結局のところ我々の判断はチューリングテストによる他なく、それはコンピュータがその内容物を人間に分かる言語に翻訳できるかどうか、に掛かっている。
ここでは別の問題、すなわち原理的に「翻訳」は可能なのかという問題がある。
英語は日本語に翻訳できる。何の疑問もなく思っているが犬=DOGと数式にすることができるほどには同じではない。そもそも「犬」に類する言葉がないというような場合もある。
「E=mc^2」はもっとも美しい翻訳として名高いが、これを理解するのにどれだけの知識を必要とするのかを考えれば、それがいかに難しいかはわかる。犬とDOGもたがいにそれぐらいの知識の集積があれば=で結べる等価性を持つことは可能なのだろうが、それは元々の犬とはかけ離れたものになって始めてできるのであって、それを翻訳と言っていいかは疑問が残る。
同じような形式を持つ人間同士でさえこれほど難しいのに相手がコンピュータではちょっと無理がある。


カラスの示す高い知性の証拠として胡桃を道路に置き、車に割らせて中身を食べるという行動がよくあげられるが、これはあくまで人間に分かりやすい行動であるというだけで、カラスが人間が考えるのと同じようなロジックによってそのように行動しているわけではない。また高い知性が他のところで発揮されていてもそれが人間にとって分かりやすくなければ(ロジカルでなければ)それは見落とされるだろう。
それでもカラスに高い知性を認めることはできる。別にどうやってその答えを出したかは問わない。たしかにチューリングテストでしか知性は認定できないが、それは必ずしも言語によらなくてよさそうだ。




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宗教と数の関係性も面白い。
GODは「唯一無二」と説明される。「一にして全」という汎神論の考え方がある。
仏教における「空」を理解するのに「0」の存在は欠かせないだろう。
数の発見、そしてその後の発展と神概念の発達はなんらかの相関関係にあると見ていい気がする。
数を信奉したピタゴラス教団などはその典型であるが、宗教と科学が分離したように宗教と数もまたどこかで袂を分けたようだ。
だが「シンギュラリティ」は数と宗教の邂逅のように見えなくもない。

http://michiaki.hatenablog.com/entries/2015/01/08
http://michiaki.hatenablog.com/entry/2015/01/29/
http://michiaki.hatenablog.com/entry/2015/10/13

宇宙人とコミュニケーションをとるには数学を使えばいい、という話を聞いたことがあるがこれは数学の普遍性を言っていると同時に数と人間とのかかわりの無さ、を示した話でもあると思う。
人間がいなくても数は成立する。
逆にそれ以外のあらゆるものは人間がいて始めて意味と価値を持つものなのである。