「自由洗脳競争社会=春秋戦国時代」説

何かすごい好評だったのでもう一発・・・これで終わりw
以下は全然まとまってないですけどオレが今考えてることをいくつか大雑把に。



(1)
言及リンクなしトラックバック論争感想 - ぶろしき
例えばこの辺で書いた、リンクなしトラバを弾くか弾かないか選べるようにするかというような仕様はブログを提供しているサービスごとに違っている方が望ましいと考えている。こういった仕様の違いがそれぞれのサービスを利用しているユーザーに思想的偏り、のようなものを生みそしてそれが純化、先鋭化していく。そのうちどのブログサービスを利用するかの選択にはこういう思想的な選択、どういう思想的コミュニティに所属するか、というようなものが最も重要視されるようになるんじゃないかと思う。というよりそうなってくると面白いなとw


(2)
http://www.jmrlsi.co.jp/menu/report/2003/net-com_1.html
上はインターネット上で形成されるコミュニティとは何か?に関する文章。
ブログツールを提供しているサービスのそれぞれを「国」と考える。何がしかの帰属意識のあるものとして2ちゃんねるSNSも含む。2ちゃんはちょっと特殊だけど・・・
「反逆のコメンテーター」について - ぶろしき
ぼくたちの「信頼」社会 - ぶろしき
この辺で書いたようにブログ界は新しいパラダイム「自由洗脳競争社会」の雛形になる、というのがオレの読み。


(3)
・・・なんだけど現状において凄い思想的なものを強く感じるのははてなぐらいなのでここでは、2ちゃんねる、ブログ(はてな)、SNSmixi)の三つに注目。
自然+主観=公? - ぶろしき
特にこの三つについてはここで
2ちゃん=匿名性
ブログ=無名性
SNS=実名性
としても書いてるので参考。


以上を踏まえて以下「自由洗脳競争社会=春秋戦国時代」説。




春秋戦国時代 - Wikipedia

この時代は都市国家および都市国家の連合体から統一王朝の創出へと進む時期に当る。すなわち社会のあり方が大きく変わった不安定な時代でもあった。そのために諸子百家といわれるように多くの思想が現れた。

ということでこの時期の中国は『社会のあり方が大きく変わった不安定な時代』であった。そこで社会のあり方のみならず人の生き方のようなものも含めて様々な思想が生まれたわけだけど、この諸子百家についても以下ウィキペディアの説明から短いので全文引用。
諸子百家 - Wikipedia

諸子百家(しょしひゃっか)とは中国の春秋戦国時代に現れた学者・学派の総称。諸子はもろもろの学者を百家は多くの学派を意味する。

前漢初期の司馬談諸子百家を六家(陰陽家儒家墨家、法家、名家、道家)に分類した。班固は『漢書』芸文志で、諸子百家を九流(六家に加えて縦横家、雑家、農家)に分類し、これに小説家を加えたものを十家としている。さらに、これに兵家を加えたものを諸子百家という場合が一般的である。

春秋時代に多くあった国々は次第に統合されて、戦国時代には7つの大国がせめぎ合う時代となっていった。諸侯やその家臣が争っていくなかで、富国強兵をはかるためのさまざまな政策が必要とされた。それに答えるべく下克上の風潮の中で、下級の士や庶民の中にも知識を身につけて諸侯に政策を提案するような遊説家が登場した。 諸侯はそれを食客としてもてなし、その意見を取り入れた。さらに諸侯の中には斉の威王のように今日の大学のようなものを整備して、学者たちに学問の場を提供するものもあった。

百家争鳴の中で、秦に採用されて中国統一の実現を支援した法家、漢以降の王朝に採用された儒家、民衆にひろまって黄老思想となっていった道家が後世の中国思想に強い影響を与えていった。

洗脳競争とは要するに洗脳戦争である。幻想資本に基づいた戦いなのでそれぞれのツールを提供するサービスごとのユーザー、つまりある幻想を共有している人達はより多くの人が同じ幻想を共有することを望む。そのため『>富国強兵をはかるためのさまざまな政策が必要とされ』てくる。更に『>下級の士や庶民の中にも知識を身につけて諸侯に政策を提案するような遊説家』もでてくる。幻想資本を持った有力なツールを提供している「国」はその思想を先鋭化、体現したような食客としてのブロガー、を抱えたりするようになるかもw(いやすでにいる。gooのあの人とか・・・)
いずれにせよ地域に根ざしたものとは違うネット上のコミュニティ、共同体は価値観や思想を共有する繋がりになるのでこのいわば「思想的集団」を考える上では中国の「家」という概念が妥当であるような気がする。
諸子百家とはいっても実際はせいぜい十家程度だったようだけど、このように様々な思想的集団が発生しどういった方法論によって国を運営していくか、とか人の幸福な生き方、とかを身分を問わず色々な人が色々に考えたそういう時代状況と現在のネット上のそれが非常に近いように見える。とすると現在のネット上でも争点になるのはこの仮想世界の秩序をどうするか(例えば匿名実名問題、リンクなしトラックバック問題とか)どういった世界が人を幸せにするか、というようなものが争点になると思う。
でこれらの中国の思想の中でも特に後世まで強い影響を持ち続けた主要なものが三つあってそれが道家儒家と法家。これらと現在ネット上で非常に有力なコミュニティを形成し、かつ大きな幻想資本を持っていると思われる三つのものを対比させてみる。
といっても詳しいとこはさっぱりなのでかなりおおまかな話。
前回も参考にしたhttp://homepage3.nifty.com/syunjyu/この辺を参考にしつつ。


道家自然主義=匿名性=2ちゃんねる
道家老子の思想とは「無為自然」「無知無欲」というようなもの。人為を嫌い自然としての人を肯定する。これを自然主義をいうならハンドルネームさえない匿名の世界とは自然としての人が最も表現されるところ、ではないかと考えられる。礼とか法とかが最も適用されにくい場。自我の存在しない場。


儒家=理想主義=無名性=ブログ】
儒家孔子は『仁をその思想の基本とし、礼によって世を治めることを理想』とした。これは性善説によるつまり人への信頼を前提にした理想主義的な考え方。でこれが固定ハンドルという無名性によってコミュニティなり秩序なりを形成しようというブログ界の(っていうかオレのw)理想なのだけど重要なのは下の法家と違いシステムに完全に依存した秩序ではない点。


【法家=現実主義=実名性=SNS
法家の韓非子は『所詮、人の根本には悪があり、放っておくととりとめがなくなるので、法律/刑罰によってしっかり治めなければならない』という性悪説に基づいた、極めて現実主義的な思想。現状SNSは実名性を担保できていないようだが、入り口を制限し中に入っても足跡によって行動が監視でき、日記の公開レベルも設定できる(ってmixiしか知らんのだけど)これらはつまりシステムという法によって秩序を作る。そこが信頼、安心できる場である根拠はシステムにある、というでこれはやはり性悪説に基づいた考え方なのだと思う。




と例えばこういう対応ができるんじゃないかと考えている。
この中でも特に面白いな〜と思うのが道家。これは後に道教という宗教にもなるのだけど『>民衆に広まった』点や、この辺で書かれているように『>道家の理想とする社会は、自給自足の農村共同体のようです。権力とか、道徳的強制が入り込んでこないような共同体。そういうモノを一応目指したようです』というようなとことかが何となく2ちゃんねる的。
で。
これら三つについてはそもそも共存ができるわけで一人の人が2ちゃんもブログもSNSもやってたりするのでそれぞれは、特にブログとSNSなんかは緩く繋がってもいるようだ。なので幻想資本をめぐる「闘争」はやはり同じブログならブログツール同士、SNSならSNS同士で激しくなるのかもしれない。
そこで問題にしたいのがソーシャルブックマークなのだけどオレはソーシャルブックマークこそが(市民)参加型ジャーナリズムであると考えているが、この新しい参加型ジャーナリズムはブログツールと連携してこそ価値がある。
圏外からひとことのhttp://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20050906#p01こちらの記事で書かれているようにそれぞればらばらの個に分解、参照できる方がより意義深いのだと思う。
ので全ての、とは言わないけども大手のブログサービスはこのソーシャルブックマークをぜひとも組み込んで欲しいな〜と思う。今のはてな一強の状況はあんまり面白くない。新聞でも三大紙はあるわけなのでSBMも三大SBMぐらいあるといいな〜と。それでこのSBMによってブログユーザーの思想的偏りがある程度明示されるようになりそれによってどのサービスを選ぶかという基準も思想的に選択されるようになりますますサービスごとの思想的分化が進む・・・でもってその間で大いに競争したら面白くなってくるんじゃかな〜と思ってる。




とまぁ大体こんな事をぼんやりとイメージしてたりします。
要するに岡田斗司夫の提唱した「自由洗脳競争社会」とは中国の春秋戦国時代のようなものになるんじゃないかな〜、ということで一先ずこの話は終わりに・・・あ〜でも「2ちゃんねる道家」説はもっとちょっと突き詰めたいかもw




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