同じものがたくさんあると見なしたモノを消費しかけがえの無い個を大切にする人間のやらしい情知

なぜ、現実では「人を殺してはいけない」とされ、フィクションで… - 人力検索はてな
人工検索で300はてなポイントゲットしようと思い立ってからオレが初めてした回答した質問。
しかしあれです。人工検索って以外に難しい。ホントにオレは知識ないな〜とか思い知らされる。検索して調べるというのもある程度知識がないとうまく検索ができない。そもそも自分の為にだって面倒であんまりやらないのでなおさら。という事で答えられる質問なんて中々ないな〜と思ってたとこで上のような質問。
id:michiakiさんのは他にも
倫理・宗教・法律を持ち出さず、かつ情に訴える以外の方法で、「… - 人力検索はてな
というヒット作?や最新のだと
「なぜ自殺してはいけないのか」を、「なぜ人を殺してはいけない… - 人力検索はてな
とかとにかく自明の前提に関してそれを揺さぶるような質問ばかりで面白いのです。こういうのに答えはあってないようなもんなので知識なんかなくても答えられるし(まぁ合った方がいいけど)何よりこういうのを考えること自体が面白いので楽しくできる。ってまあ楽しんでポイントもらうのもどうかと思うけども。(ちなみにヒット作?と最新のやつでのid:cosmo_sophyさんの回答が凄すぎる。前提に関わる問いにあんな的確に答えられるってのが。cosmo_sophyさんの回答の後は答えたくないw)


それはともかく。
ここで初めてした回答の

2に近いですが、フィクションの世界では同じものが何度でも再生産が可能です。
例えばあるキャラクターが死んだ、としても何らかのかたちで生き返らせるということが作者には可能です。
それだけでなくそれは何度も繰り返し様々な人に読まれます。読まれてる間は生きているわけです。例えその物語の中で死んだのだとしても読まれるたびに生き返るので本質的に殺すことができません。

この「同じものが何度でも再生産可能なものは殺していい(あるいはそもそも殺せない)」という事について答えた後もずっと考えていていたのでこれの続きというか補足。質問の要旨とは殆ど関係ないんですけど。




でこの同じか違うか同一性と差異の問題について養老先生の本で書かれていた内容。例によってどこで書かれていたのか忘れたので脳内記憶から大体の要旨。


>XとYは同じなのか違いがあるのか。グループAに同じである事の証明を、グループBに違う事の証明を依頼するとする。その場合グループAの作業は永遠に終わらない。もし終わるとすればそれは意図に反して違うところが見つかった時である。


同じである事の証明は本質的にできない。ので同じであるというのは恣意的な認識であり「見なし」であり、本質的には全てのものは違うと考えられる。だから同じであるという場合それはそのモノ全体でなく部分、要素とか属性とか傾向についての認識。とするとXとYにどんなものを入れてもとにかく一つでも同じ要素さえ見つかれば同じである、という事は出来る。でも本当は違う。違うのが本質であり同じとは常に恣意的なもの、あるいは暫定的なものという事だと思う。
ではなぜ同じという認識が必要なのか。
そもそも言葉というのがそういうものだ、というがある。リンゴという言葉ができた時にはもうあのリンゴとこのリンゴは同じ、なわけで象徴化とか概念化というのはそういう事なんだろうと。つまりヒトの特徴として様々なモノから同じ要素を発見、認識する能力に優れている、という事が言えると思う。
で。
もう一つそもそも全てのモノに違いを見る事なんて能力の限界として出来ない、という事情も多分ある。あるモノについての全ての要素を知っている、のは神のみであって人間は全ての要素を知らない。認識できない。そんなヒマもない。という能力的な限界として違う要素を発見できなければ同じと見るしかないという事。
上の話と下の話は一見矛盾してるような気もする。同じと認識する能力は優れているのか劣っているのかという。でもちょっと考えるにそれはえらい難しそうな予感がするのでそれは一先ず置いておく。それこそ能力の限界でw(まぁ比べてるのが動物か神かという事でもあるんだろうけども・・・)
という事でここでは下の「認識能力の限界」について話を進める。




人が同じと認識するのが極めて恣意的である例として「なぜ殆ど何の罪悪感もなく牛を食べる事が出来るのか」というのがある。
食肉用の牛を飼育している牧場などでは基本的に個体に名前をつけてはいけないとされている。名前を付けることは個を識別、認識することである。個を認識してしまうと情が移る。何らかの感情を呼び起こす。という傾向を人間が持っているので名前をつけてはいけないのだ。
一方「消費者」にとってそれはもはや牛ですらなくてどこかの部位である。国産か外国産か、肩か胸かそれとも太腿か。消費者にとっての牛とはそういうものであってそこに個などもう殆どない・・・。
がゆえに何の罪悪感も持たずにそれを「消費」できているのである。個をあえて見ないようにすることによって「同じものが何度でも再生産可能」と見なしているわけだ。
だが本来牛に個を見る程度の認識能力を人間は持っている。例えば競馬が好きな人には馬肉を食べられない、あるいは躊躇する感情を持っている人がいる。競馬馬にはちゃんと名前が付いていて個が認識できてしまっているからだろう。そうして個が認識でき馬は個を認識できるモノ、という感覚が芽生えればそれを安易に消費することはできなくなる。こういう傾向が人間にはおそらくある。

  • 個を大切にし同じモノを消費するという傾向。

そしてこの事は逆説的にこう言うこともできる。

  • 大切なモノを個と見なし消費したいモノを同じと見なす傾向

これについての非常に興味深い話。


ドナルド・キーンという日本文学の研究者がいる。オレは『日本人の美意識』という本を読んだのだけどこの本の中でも触れられていたエピソードをネットでも見つけた。(ちなみにこの本は凄い面白かったです)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/sengo/ci_se_05081501.htm
戦時中に日本の情報を分析する為の米軍の語学将校だったドナルド・キーン氏はそこで日本兵の残した日記に出会った。

「日本人は、小さな出来事を日記につづっていた。文章はつたなくても、胸を打つ言葉だった」

〜中略〜

「早く故郷に帰りたい」「豆が11個あるが、3人いるので、どうやって分けたらいいか」「仲間がみんな死んでとうとう1人になった」「腹が減った」――。ページを繰ると、兵士たちの胸の内が伝わってきた。「自分たちと同じ人間がいた」

これがキーン氏の日本への興味の出発点だったらしい。
ここで重要だと思うのが最後の『自分たちと同じ人間がいた』という認識。これは逆に言えばそれまでは同じ人間だとは思っていなかったという事であり日本人という概念、あるいは黄色いサルだったりしたのかもしれないという事。でだからこそ彼らは空襲が出来たのだし原爆を何の躊躇もなく落とすことができた、のだと思う。これを何の罪悪感も持たずに出来るというのは「同じモノがいくらでも再生産可能」という認識でなければ出来ない。これを「消費したいモノを同じと見なす傾向」と解釈することも可能だと思う。
がこの日本兵の日記を読み胸を打たれたキーン氏にはもはや何の罪悪感も持たずに「消費」する事は出来なくなっただろうと思われる。つまりここで初めて個を発見、認識したのだという事。それが「同じ」人間である、という認識に至ったというのはちょっとややこしいけどもw
とにかくそういう話。




でこの話が何に繋がるかというとこれに繋がった。
http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/bokusen/senno1.html

堺屋はいかなる時代、いかなる社会にも、社会の共通概念である基本価値観がある、としました。その価値観を堺屋は次のように定義しています。
「豊かなものをたくさん使うことは格好よく、不足しているものを大切にすることは美しいと感じる、人間の優しい情知」
堺屋はこの根源的な法則を、『知価革命』の中で何度も主張しています。これを使って過去から現在における変革を捉えなおし、未来を予測しているのです。
これは歴史を捉えなおす上でも、未来を予測する上でもとても参考になる法則です。(このあと、第二章で詳しく説明します)。
つまりその時代のパラダイム(社会通念)は「その時代は何が豊富で、何が貴重な資源であるのか」を見れば明らかになるということです。

堺屋太一が『知価革命』において前提にしたといういかなる社会にも共通する基本価値観

  • 豊かなものをたくさん使うことは格好よく、不足しているものを大切にすることは美しいと感じる、人間の優しい情知

これにかすっていると思った。
前提にしてるということは説明不可能ということでもあると思うがこれもう一歩突っ込めるんじゃないかと。
なぜ豊かなものをたくさん使うのが格好よく、不足しているものを大切にするのが美しく感じるのか?
それは人がたくさんあるものを同じと見なし、少ないものに個を発見する、そういう認識傾向があるからじゃあないかと考えた。
例えば。
一クラスを受け持つ先生はせいぜい40人程度を相手にしているからそこにそれぞれ違う個を見る事が可能である。が校長はどうか。大体全校生徒を相手にしているので例えば1000人として、これをそれぞれ違う個として認識できるか。まず無理。1万人とすればもう間違いなく無理。
こういう人間の認識能力の限界。あるいはここまでで書いたその恣意性も含め、堺屋に習ってこの傾向をこう定義する。

  • 同じものがたくさんあると見なしたモノを消費しかけがえの無い個を大切にする人間のやらしい情知

なぜこれが「やらしい」のかは説明する必要はないと思うが、良い方の例が思いつかないから、である。
それとこれで堺屋の法則が全部説明できるわけではない。例えば石油のような資源についてはそもそも個なんてないのでこういうのは説明できない。それでもある程度はこれで説明できる部分もあると思う。
という事でこれを一つの普遍的法則というか傾向として前提にして分析すると何か色々見えてきそうな予感がしている。
・・・というとこで終わろうと思ったのだけどこれでもってちょっとだけ分析して終わりたい。ブログ、あるいはブロガーについて、なのだけどこれによって二つの見方が提示できそうだ。まず嫌な方から。




ブログは記事単位で読まれるようになった、というのがある。今後もこの傾向は進んで行きそうな気配だがこれがどうやらブログの数自体が多い、という事とリンクしているんじゃないかという事。
数は増えれば増えるほど人間の認識能力の限界から個として識別することがどんどん困難になっていく。これはつまりどんどん「消費」される傾向が強まっていく、という事でもある。ここでの個というのはブログ。それが記事単位のバラ売りになった。
要するにこれは牛の話と同じじゃあないかと。それはどこが原産国かそしてどこの部位か、しか問題にならず、個であるブログは顧みられなくなっていく・・・というのを説明できる。あるいは安易に消費したいから個を見ないようにしている、という事もできるかもしれない。




次は良い方。
ブログするとはどういうことか。それは例えば「大衆」という言葉へのレジスタンスである、という見方。
人はなぜWWWの世界に日記など書いているのだろうか。それを記すことの意味。そのヒントがドナルド・キーン氏のエピソードにはある。
それは取り立てて優れていたわけでもない。小さな出来事をつたない文章でつづっていただけのただの日記だ。だがそれはキーン氏の世界認識を劇的に変えた。胸を打った。
これだと思う。


「大衆」は消費するし消費される。
それに対して「個」を主張すること。


同じ話の繰り返しであるとか垂れ流しであるとか。オレがそういう言説が嫌なのは多分こういう事。




それらは待っているのだと思う。
何を?
キーン氏のような人との出会いを。
そしてそれが「世界」を変えることを。