「信頼通貨」について

当初の予定より随分引っ張れたので、もう流石に結論書いて一先ずこのテーマは終わろうか・・・と思いきやまた色々レスポンスいただいて刺激を受けたので(ニューロンでいうなら「興奮」したので笑)ちょっと「ぱち研」はお休みにする。というかもう心理とかも関係なくなってる気がするが・・・。




とりあえず前向き。なブログ
ネットの世界をより有意義なものにするべく色々興味深い考察をしているさかまたさんのブログ。前々回の記事にコメントしてもらってオレと同じように『ぼくたちの洗脳社会』を前提にされている事が判明。どうりでオレのツボを刺激するわけだ・・・とにかく話はとても面白くかつデカイです(笑)〜大ブロ式〜としてはぜひとも見習っていきたいとこです。その大きさに。
というわけでそこで語られているものについて色々考えてみる。

「信頼通貨」というのがどうやらひとつのキーワードになってるようです。この「信頼」についてはちょうど 前々回の「ぱち研⑦」山岸俊男という人の提唱している「信頼社会」を知ったばかりだが、ここに繋がってきそうである。立て続けにこの「信頼」というキーワードに出会うシンクロは面白かったが、ここの記事でいっている「評価を評価する」という事に関しても実はネット市場における信頼−シンポジウムここで山岸俊男がほぼ同じ問題を議論していてまたびっくり。方向性としては興味深いがこの問題はやたら難しいので一先ず保留。
ここではちょっと「信頼通貨」というネーミングにちょっと突っ込みを入れておきたい。
というのは通貨というのはそもそも信頼が前提になっている、という事についてである。現在のように、金本位制という物理的な基盤を持っていたものから管理通貨制という(らしい)物理的な裏打ちの無い制度になってしまった時点で、そこでの通貨はそれを発行している国家なり制度なりに対する「信頼」によって殆ど成り立っているといって過言ではない。信頼が失われればただの紙切れ、になってしまうのである。実は。もちろんさかまたさんが言っている「信頼」とはそれを使う時の相手に対する信頼、あるいは支持といった意味合いでまったくレベルの違う話のように見えるのだが・・・ところがよく考えるとこの二つは実は結構重なってくるのではないのか?とも思うのである。つまり国家に対する信頼か、個人に対する信頼か、という話に要約できるのではないかという事だ。
国家に対する方は通貨の拠って立つ前提としての信頼が基本ではあるが、その通貨を使うという事あるいは持つという事自体にはその国家への「支持」という意味合いも実は多分に含まれているわけで(これについては例えば敵対的な国家の通貨を持つという行為の意味を考えればおおよそ分かるのではないかと思う)、こっちの「支持」という方に関しては実はさかまたさんの言う「信頼通貨」的な意味合いに極めて近いものと思われるのである。




■新しい通貨のあり方
と、そこまで考えてみてこの「信頼通貨」というものを考える上で重要なポイントになるのはそれが同じ単位である必要があるのかどうか、というあたりになりそうな気がしてきた。つまり通貨自体が「信頼」を同時に表すのだとしたら、通貨を何に使うかで信頼あるいは自分の価値観を表すのではなく、どんな通貨を持つかという事でそれを表せるのではないのか?という事。
自分が何を信頼し何を支持しているか、どんな価値観で生きているか、それを「ある通貨」を使う事、あるいは得る事で表現されうるのではないだろうか?
例えば「環境通貨」というものを考えてみる。この通貨を得るためには何らかの「環境を良くする仕事、活動、行為」をする事によってしか得られないものとする。そうだとするとこの環境通貨をどれだけ持っているかがその人の価値観を表明する事になりうるし信頼を得る事にも繋がるかもしれない。もちろんこの通貨は使う事もできる。そこで何でも買える、ようにするよりは何か特典があった方が良いように思われる。環境通貨でしか買えないもの、があればベターだろう。
これがうまくいけば非常に良い循環が生まれる気がするのだがどうなんだろうか?これは「地域通貨」というものにも繋がってそうな話なのだがあいにくまだよく分かってないのでそれは置いておく。
確か福沢諭吉だったと思うが「金には色をつけたい」みたいな事を言っていた記憶がある。(おぼろげ)その意味するところは「何によって」得た金だろうが一万円は一万円であるという事の理不尽さ、だ。汗水垂らして得た1万円でもドロボーして得た一万円でも体を売って得た一万円でもアフェリエイトで得た一万円でも(全部汗水は垂らしてるかもしれんが笑)すべて使う時の価値は同じ一万円である。この事は今は当たり前だと思われているが、よくよく考えれば実は相当理不尽な事だと言えば言える。もし新たな通貨のかたち、が創造されうるならばこの理不尽、矛盾を解消する事が要請されているのではないだろうか?何によって得たか、は何に使えるか、を制限する。そういうシステムを考える必要があるのかもしれない。




■「意味」と「価値」
ぱち研⑥−ぼくたちの「信頼」社会でいったように現在は社会の基本的な価値観の大きな変化「パラダイムシフト」の時代である。そこではあらゆる社会的価値観の基本的な前提が変わってしまう。疑うべきは「当たり前」「常識」なのである。ところが前提というのは考えるとホントに難しい。前回「意味」と「価値」という言葉を使い分けていたら、意味と価値の違いがさっぱり分からなくなってしまった。
意味とは?
価値ってなんだ?
考え出すと境界線がぼやけてくる。前提を疑い始めるとそれまでくっきり分かれていたものの違いが曖昧になり統一されてくるような感覚になる。
「お金」って何だ?
と考えるとこれが実は「メディア(媒体)」であるという事が分かってくる。で、媒体って何だ?と考えると、例えば文字が無い時代の声、すなわち音声によるコミュニケーションについていうと、その媒体とは「空気」になるのである。音は空気の振動によって相手に伝わっているわけで空気という「媒体」がなければ音声によるコミュニケーションはできない。つまりここでは空気がメディアになる。じゃあコミュニケーションって何だ?と考えると・・・ってこれ以上はバカになりそうなんでやめとく。とにかくメディアという視点に立てばネットの世界もお金も同じレベルで見る事ができる。そこには「何か」が乗る。ネットは「情報のメディア」であると考えるとそこに乗っているのは・・・「意味」か?
で、お金に乗っているのは「価値」と考えられる。つまり通貨は「価値のメディア」という事だ。
しかしこの記事で提示した新しい通貨のかたちには「情報」が含まれてくるような気がするが・・・
と、まとまらないまま一先ずギブ・アップ。




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