そそのかしたヤロー

モテ・非モテ - おれはおまえのパパじゃない
前回ちらりと紹介した『おれはおまえのパパじゃない』のテラヤマアニさんの「非モテ」に関する記事。
・・・凄く嫌な展開になってしまった。
フローな話(2)に来てるトラバの話を書こうと思ってたけどそれは次回に回してこれについて書いておきたい。


まず上のテラヤマアニさんの記事はとても面白かったしこの後どういう展開になるのかも凄く楽しみだった。これに「非モテ」なる人達がどういう反応を返すのか。テラヤマアニさんの一連の記事は凄くまっとうで批判だけでなくどうすればいいのかという建設的な提言もあり、これを返すのは難しいだろうな〜と思っていた。
ところが事態はまったく想定外の展開に。


Rivers and Bridges−私のことをお話しします
モテ・非モテ話から離れて - おれはおまえのパパじゃない


・・・まずこれについてオレが感じたものに非常に近い見なしをしているのがこちらの記事。
「で、みちアキはどうするの?」−おまえはおれの猫じゃない
みちアキさんに関してはこの辺の記事を読んで凄いひきこもり的な人だな〜と感じていたのだけどやはり何か凄く近いものがある気がする。

iduruさんとテラヤマアニさんの間で幾度か応酬があり、自分を守ろうとしたiduruさんが「まさかふつう持ってると思わない、ほとんど最強に近いカード」を切ったので、アニさんが降りた、という話(おおざっぱすぎ)。

オレもテラヤマアニさんは「降りた」のだと思う。でもこれを批判できる人は多分いない。誰だって同じ立場に立てば降りるんじゃないかと思うしオレだってそうするかもしれない。だからこれについてはここではどうでもいい。

もちろんそんなカードの存在を知っていたら、アニさんはゲームに乗らなかったかもしれないし、もちろんiduruさんも好きこのんでそんなカードを得たわけではないし、今回使ったことすら意図に反して、かもしれない。でもこれはもう起きてしまったので、仕方ない。これから、良い解釈を見つけるしかない。

確かにしょうがない。でも良い解釈に関していうとこれを「美談」にする気も良い「対話」であるとする気もオレにはない。のでまぁこの記事を書いてるのです。
という事で以下オレの「解釈」を書こうと思います。






まずこの話は元々自らを「非モテ」という定義する人達がいてこの「属性」に関する話であった。
ざっくり言えばこの「非モテ」なる人達が受けている「不当な」苦しみなり被害を「普通の」人達に理解させ改善しようという「運動」であり、自分の受けている苦しみは社会の無理解のせいであり悪いのは社会(の価値観)である、というような主張をしていた。
それに対する批判の一つとしてテラヤマアニさんは一連の記事を書いていた・・・
というのが前回リンクで紹介した時点までのオレの理解。
で、これに対してiduruさんという人がこの辺から何度かそれに対して反論をしていたようだ。今読んでみる限りここの時点ではあくまでiduruさんも「非モテ」という属性の話として受けているし反論もしている。ところが最後に出てきたのが「あれ」なわけだ。
『私は小中高の12年間をずっといじめられっ子として生きてき』たというiduruさんの『個人的な苦しみ』を書き綴った文章だ。


みちアキさんの文章から引用。

だから、いつか、手放せる日がくるといいですねー、なんてこた言えない。手放したほうがいいんじゃないのかなー、ぐらい。iduruさんがどうなろうと、別にどうでもいいですから。わたしの奥さんや、飼っていた猫や、日本や、ゆーせーみんえーかや、インターネッツや、世界なんかと、等しく、ひとしく、どうでもいいです。所詮他人のゲームなんだし。飽きるまでやればいい。

そう。確かにどうでもいい。
iduruさんの苦しみは誰もが同情するだろう、壮絶に悲惨な体験である。だが同時にそれはあまりに特殊過ぎて普通の人に「理解」することのできない経験でもある。
オレには12年間もいじめられ続けた経験はないし、たくさんの薬を飲まなければならず、震える手で文章を書いている人の気持ちを「理解」することはできない。
理解の前提はあくまで経験なんであって経験のないところにあるのは誤解だけである、というのがオレの考え。
これは何にでもいえて普通の人が経験していない特殊な経験をしてしまった者は常にこの無理解の壁に突き当たらざるをえない。
そしてみちアキさんのいうようにそれは結局他者にとっては激しく「どうでもいい」ことなのだ。
従ってそれを他者との「対話」に持ち出してはいけないし、でだからこそ属性で語るのが重要なのだ。属性で語ることによってそれが個人的な問題でなくある種の普遍的な問題、は言い過ぎにしても他者にとっても必ずしもどうでもよくない問題、何らかの関わりがあるかもしれない問題、社会的な問題として語ることが可能になるのだしそこでのみ他者との「対話」は成立しえる。のだと考える。


が今回それを持ち出してしまった。それは伝家の宝刀であって出せば「勝てる」ものだ。
じゃあそれを出した結果どうなったか?
まずそれまで「対話」が成立していたはずのテラヤマアニさんが降りてしまった。そして謝罪した。理解はできずともその苦しみに共感し全面的に謝罪した。
はっきり言ってたいして関係あるわけでもない他人にここまでしてくれる人は殆どいないと思う。がそこまでしてくれるような人に、そして何らかの理解をしようと対話してくれてた人に思いっきり罪悪感を与え謝罪させてしまったのだ。多分iduruさんを12年間いじめたようなやつ、直接関わった人はこんなことはしない・・・。
そしてブクマコメントなど見る限りこの非モテ論争を面白く読んでいたり参加していた人達にもある種の罪悪感を与えてしまったようだ。オレもその一人だ。はっきり言って興味本位で追っていただけ。こんな深刻な話を読んでただ単に興味本位で追っていた自分が凄くまずいことをしていたように思われる、という感じ。
でこの話を美談として「解釈」する人は実はこの罪悪感から逃れるため、だとオレは思っている。もちろんこれも一つの落としどころであると思うしそれを批判するつもりはない。
だがそもそもこれは罪悪感を持たなければいけない問題ではだろうか。それを興味本位で楽しく読むことはまったく悪いことなわけがない。iduruさんのあの話は非モテという属性でなくあくまで個人的な問題なのだからそれは他者にとっては「どうでもいいこと」なのだ。もちろん同情なり共感なりする人はすればいいので、要は何か彼にたいして悪いことをしたわけではないということ。単に読んでただけの人や非モテという属性について語っていた人は。
とこれが伝家の宝刀を抜いた結果。
さあ果たしてこれがいったい何になるのだろうか。本来理解できないものと多少なりとも「対話」によって理解し合おうとしてくれるような人の罪悪感をいたずらに刺激し、そして対話のテーブルから降ろしてしまうことにどれほどの意味があるのか。少なくともオレには何の意義も見出せない。そこで何かが「理解」されたのだとも思わない。そしてそんなことをしてしまえば今度はその尻馬に乗る馬鹿に利用されるだけ。

だから、うーん、そのカードはいつか捨てなくちゃいけないんじゃないかなぁ。わたしは、そういうのチラついたら、ヒきますもん。そんなに優しくないし思いやりもないから。だってそのカードの裏には、いっぱいの良識派みたいなひとたちが見えるし、そんなふうに気を遣って付き合うのもいやだし。それ持ってる限りは、一面では強者です

同意。
ここまではまったく同感。だから問題はここから。

もちろんiduruさんも好きこのんでそんなカードを得たわけではないし、今回使ったことすら意図に反して、かもしれない

そう。iduruさんはどうやら本来その伝家の宝刀を抜く気はなかった、ようなのだ。そうオレにも読める。少なくともそれまではあくまで非モテという属性について互いに語っていたし、対話は成立していた、はずなのだ。
がどうやらそれをそそのかしたヤローがいる。
iduruさんにあの記事を書くように勧めたヤローがいる。
せっかく属性によって何とか成立していたはずの対話をぶち壊したヤローがいる。
そいつは自分のことを書かないで自分よりはるかに酷い体験をした人のその個人的な体験、本人いわく『みっともなく汚らわしく卑小で惨めでどうしようもない私の論理』を書かせたのだ。
そもそも属性を持ち出したわけだしみんなその属性について語っていたはずなのにそれを個人に結びつけた。


モテ・非モテ - おれはおまえのパパじゃない
ホントはこの内容が指し示すただの自己愛で散々騒いでただけのヤローがこのまっとうな批判にぐうの音もでず、そこでiduruさんを持ち出して「お前はこういう人に向かって言っているのだ」とやったわけだ。


笑わしてくれる。
他人の体験を持ち出した時点でそのヤローは批判を認めたも同然じゃないか。そのヤローこそが自己愛にまみれて直接危害を加えたわけでもない人達に敵意を持ち罪悪感を植え付ける不当なルサンチマンの塊、じゃあないのか?




例え話をする。
ここに一人のひきこもりがいるとする。
彼はひきこもりがいかに苦しいか、そしてそれが自分のせいではなくあくまで社会のせいである、という主張をしていたとする。
それに対していやひきこもりなんて甘えでしかない、という批判をしてくる人がいた。
その批判に対して何一つ言い返せなかったそのひきこもりは彼の友人である顔に大火傷を追って12年間一歩も外に出られず引き篭もらざるをえなかったその経験を語らせて「お前はこういう人に対して甘えだと言っているのだ」といって相手に謝罪をさせた・・・。例えばこういう話。
二つ重要なポイントがある。
ひきこもり、に関わらずあらゆる属性は様々な個人的事情を含む。なぜひきこもりになったか、その理由は様々だしその苦しみも人によって違う。だが例えば上の大火傷を追って12年間引き篭もらざるをえなかったという原因も苦しみも「ひきこもり」という属性で語る上では例外でしかない。他者に向けて語る上では、社会的文脈の上では。
もちろんこれは全ての人に言えることでそれぞれが例外的な個人的経験、事情を持っている人たちによって構成されているはずなのである。
一方、ひきこもりと自らを定義する存在が普通の人よりはるかに「大火傷で12年間引き篭もらざるをえなかった人の苦しみ」を理解できるというのもまた当然である。何度もいうが理解の前提は「経験」なのだから。
だからこの二人の間に共感による連帯、があっても不思議なことではない・・・。




とまぁいずれにせよ。
どうやらそのヤローの作戦は功を奏したようである。今のところ。
対話をぶち壊して「勝った」ようだ。今のところ。
罪悪感を持った人の中にはこれを美談に仕立て上げて終わりにしようとしている人がいる。今のところ。




でもホントにそれでいいのだろうか。
これを見過ごしてしまっていいのだろうか。
こんな行為を許してしまっていいのだろうか?






と以上がオレの解釈です。
みちアキさん、これはどうですかw