運動と罪悪感

前回記事の続き・・・


あらゆる運動は人の罪悪感を刺激することで人を動かしている、そういう要素を常に含んでいると考えている。そこで問題となるのはそれが適切な値であるかどうか、という事なのだと思う。
そこでいくつか思うところがあるので書いてみる。




(1)罪悪感の移動
ホワイトバンドの面白いところ。それは赤い羽根のようなものと違ってそれを永続的に身に着けることによる色分け、にあると思う。
なぜそれを見る人はそれにそこはかとない反発感を抱くのか?
いや抱かない人もいると思うけど今回読んでてそういう人が結構多かった。
ホワイトバンドのコピー

  • ほっとけない世界のまずしさ

というもの。多分ここに鍵がある。
これを買って身に着ける人というのはつまり「世界のまずしさをほっとけない私」ということを常に表明し続けている、ということなわけでこれを見る付けていない人に対して「世界のまずしさをほっといているあなた」と言っている。そういうことになるからなのだろうと思う。
これがまったく寄付にはなっていなかった、にも関わらずそれを付けている人の多くがそれを知らないで参加しているのだとするとここで起こっているのは「罪悪感の移動」であると思う。おそらくそれに参加することによってそこに効果があろうがなかろうがその人の罪悪感は多分減る。が、その減った分はそれに参加していない人へ単に移行してるだけなので総体としての量は殆ど変わっていない。そして勝手に押し付けられた人の方からは当然にして反発がある・・・。
とそういうような構図がオレには見える。




(2)命の格差
最初にこれを知った時のオレの第一印象。
「ずいぶん人の命が軽くなってしまったな・・・」
多分こんなことを思うやつは少ないだろうとは思う。でもこれが正直な感想。
クリック募金のコピー

  • クリックで救える命がある

というもの。これを逆説的に表現すれば

  • クリックしないことで失われる命がある

ということになる。ならざるをえない。
この命の格差とでも呼ぶべきものはどう考えればいいのだろう?
ここでの格差はもう殆ど蟻と人間、もしくは神と人間ぐらいの開きがある。ワンクリックというおよそ考えうる最も最小の労力によって左右される命。
オレはクリック募金を今まで一度もしなかった。それは自分がひきこもりであることから来る「寄付などする身分ではない」という個人倫理によるものもあるがそれだけでなくこういったことにうっすらとした引っ掛かりがあったから、でもある。
思えば小学生の時だったかに学校で赤い羽根募金を半ば強制的にした時にもこういう引っ掛かりがあった気がする。そこで募金する百円は駄菓子屋にいけばお菓子と交換できる百円だ。その同じお金を、そして自分で稼いだわけでもないお金を募金として使うことになにかしら引っ掛かるものはあった。が特にそれについて納得のいく説明はなかったし今も多分納得はしていない。




(3)無意識の避選択
非モテに関する記事でもちょっと書いたことのだけどこの「無意識の避選択」というのが人にクリックを促す上での大きな要素になっていると思う。
上で書いたようにクリック募金のコピーは反転すると「クリックしないことで失われる命がある」という事になる。この事に必ずしも意識的ではなくとも無意識のうちに気付いている人はクリックしないという選択がしにくい。ナイーブな人ならどうしてもクリックしたくなってしまうかもしれない。
このように選択においてある一方の方に罪悪感を持たざるをえないような「罠」を仕掛けることでもう一方の選択を選ぶように促す。この「無意識の避選択」という戦略は何もクリック募金だけでなくおそらく色々なところで行われているのだと思う。
でこれの何が問題なのか。何にせよそれでクリック率が上がればそれだけ多く募金され、結果助かる命があるのだからいいじゃないかと。まぁ確かにその通り。でもここでオレがテーマにしているのは前回書いたように「罪悪感の適正な値」というものなのでここで重要なのはそのクリック率は適正な値なのかどうか、というところ。もしそれが過度に罪悪感を与える事によって高くなっているのなら本来の適正な値はどの辺かというのが問題になる。


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という以上の話は批判かというとまぁそうなんだけどw実はそうでなくて特にクリック募金がいかに優れているかという話にここからなります。
クリック募金の問題の全てはそのコピーにあるのだとオレは思う。

  • クリックで救える命がある

ここにおいて「クリックする」というこのおよそ考えられる最小限の労力による行動と「人の命」が直接的に繋がってしまっている、これがいけない。いやもっといえばこれは完全に間違いなのだと考える。
クリック募金が人の命を救うとしてもその経緯はちょっと複雑である。

  1. まずそれに参加している企業のHPに行きクリックする。
  2. そこでクリックされた分を企業が広告費から慈善団体に寄付する
  3. 慈善団体がそれよって活動し何らかの援助が行われる

おそらくこれがおおよその経緯だ。おそらく、というのはオレもよく調べたわけでないので要するにこういう経緯であることぐらいは誰もが知っているのではないかということ。
で重要なのは企業が間に絡んでいるというところで、これがこのアイディアの秀逸な点であると思う。
クリックするには必ず企業のHPに行かなければならない。一日ワンクリックしか出来ないのでワンクリックするたびにその企業のHPを見ることになる。この広告効果、あるいはそもそもこれに参加している事自体でのイメージアップ。これが企業の利益になっていてだから企業は慈善団体に寄付することが出来る。慈善団体も寄付が集まって活動することが出来れば嬉しいわけでここでは非常にうまく誰も損をしない関係が成立しているように思う。
で問題としたいのは最初の「クリックする」という行為が何を意味しているのかということ。
それはホントに人の命に直接的に繋がっているものなのか?いや多分そうではない。クリックする行為の意味は「広告費を慈善団体に寄付している企業」の応援ないし支援、ということじゃないかと思うのだ。
そこで本質的に意味があるのはクリックすることそれ自体ではなくその企業のHPを見ること、であってそれが結局は寄付に繋がっている。当然それによって広告効果があるのならそれを見た人はその企業の商品を買うわけでそしてその商品に上乗せされている広告費から寄付が捻出される、という経緯なわけだ。
もし初めからそういってくれれば少なくともオレはクリックするのに躊躇するものはなかったと思う。クリックするか否かが人の命を左右する選択ではなく「広告費を慈善団体に寄付している企業」を応援するか否かという選択であることが分かっていれば。
もっともそれをはっきり明言すればひょっとするとクリック率は下がる。
無意識の避選択という罠もないし、クリックすることに人の命を直接的に救うという過剰な意味づけ、も行われないことになるのだから。だがこれが本来の適正な値なのだと思う。
そもそもたかだかクリックする程度の行為に人の命を救うなどと過剰な意味づけがなされれば、それはそのままその行為による満足度に変換されてしまうわけで、満足してしまえばそれ以上の行動はしないかもしれない。それだって問題があるといえば言える。
というわけでここまでの話を踏まえて以下こういった運動を行う上でオレがいいな〜と思っているあり方。



バタフライ効果
オレにとって大事なのはまず第一に人の尊厳なのだろうと思う。先進国と後進国の間のお金の価値の格差は下手をするとそのまま命の格差として現れてしまいかねない。前にテレビだかで知ったことだが数百円のワクチンが打てなくて死を待つしかない、そういうような状況があるらしいが(それもアフリカのどこかの国だったと思う)もしそれを知って募金をするというならそれはその数百円で命を買っている、と言う事もできてしまう。この軽さが嫌なのだ。
だからそういう風に行為と結果を直接的に繋げてしまうのではなく間にいくつかのプロセスを設ける。
カオス理論というのにバタフライ効果というのがある。
「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こる」というようなものでまぁ本来の意味とはまたちょっと違うようだが例えばこれがオレの考える一つの理想。
最初の蝶の羽ばたきはとてつもなく小さな力でしかないしそれがどういう結果をもたらすのか蝶は知らない。しかしその小さな力を集めて一定の方向に向ける事ができれば遠くに嵐を起こす事が出来る。
例えば「日本でクリック募金してアフリカで人が助かる」というならそういう意味付けというか認識がなされるのが理想で、そこでクリックする人は直接的にアフリカの人を助けるのではない。もちろんその行為の結果は想定しているだろうがそれは「祈り」のレベルを超えるものではない。あるいは超えてはいけないと思う。
特にそれがクリックだったりホワイトバンドだったりメールだったりの気軽で簡単な行為であればあるほど。その行為と最終的結果との間にはいくつかのプロセスが必要だと思う。




■行為自体が楽しいこと
そして不当な罪悪感を与えるのがなぜダメなのかというと結局それが偽善にいたる原因だと考えられるから。不当であることは必ずしも意識的でなくとも言語化できずとも、何となくうっすらと感じるものなのだと思う。だからこそ適当に偽善的な方に逃げてごまかしてしまう。
それを防ぐためにはまずこの「不当な罪悪感」を与えない必要があるのだと考える。
だがそうすると(1)(2)(3)のような方法論が使えないという事になり例えば「クリックで救える企業がある」というコピーでは仮に実際そうなのだとしてもこれではクリックはおそらくあまりされない。およそあらゆる運動がそういう方法論によっている以上それを使わないのでは大きな力にはならないかもしれない。
で実はだからこそ「ニセモノの良心」さんのところのコメント欄で書いたようにその行為自体が面白いもの、である必要があるのだとオレは思っているのだ。


>面白くてやってるなら見返りは当然必要ないし、感謝される必要もない。怒られるかもしれないし顰蹙を買うかもしれないですけどその代わり偽善にはならない。


というのもある。
でこの記事を何の為に書いてるかというともしここで書いた話が納得されるものであるなら、その行為が軽ければ軽いほどその最終的結果から離れている必要がある(命の格差の問題)ということが納得できるなら最初の発端、蝶の羽ばたきは楽しんで行われても倫理的に問題がない、という事である。これを納得できればアイディアを考える上での「思考の枠組み」を拡げられるのじゃないかと思う。おそらく楽しんではいけない、という前提があるように思うのだけどホントに新しいアイディアはまずこういう前提を変えるとこから始まるんじゃないかと。
まぁ果たして一般にどの程度納得できる話なのかはまだ謎なのですけど・・・




ということでこれはどうなんでしょうか?納得できるものなんだろうか?