「堀江と近藤=項羽と劉邦」説・あるいは徳について

コメント欄にて有名なコメンテーターからの突っ込み、ブクマでも好評ってことで前回記事の続き・・・

これからの社会において重要なのは「 資本力」でなく「洗脳力」、有効なイメージ。ここで例としてディズニーランドを上げているのはその後の話とも絡んで大事なポイントなのだけど、ディズニーランドのイメージとして語られている

>お金儲けではなく、人々をとことん楽しませようというコンセプト。明るく楽しそうな職場。才能に応じて様々なことにチャレンジさせてくれそうな開かれた感じ。アメリカ的合理主義による整然とした運営方針

って結構はてなのイメージとしてもある気がする。

この岡田斗司夫が書いたディズニーランドにみんながなんとなく持っているイメージとしての「幻想資本」に近いものを株式会社はてなも持っているのではないか。そしてこの幻想資本は技術や戦略によって生み出されたのではなく社長である近藤淳也氏、つまり個人がその源泉になっている、というのが前回記事のもう一つのテーマ。ここについてイマイチ説明が足りないというツッコミがあったのでもう少し書いてみます。
でこのことを説明する上で対比したいのがライブドア堀江社長堀江社長近藤社長とは項羽と劉邦でありそしてこの違いが今オレが注目している「徳」というものを考える上でも重要なんじゃないかと思っている。





トラバしてくれたmojixさんのはてなは 「ブランド」 になったという記事での一節。

個性がブランド化しており、熱狂的なファンがいるというのは、企業としては理想的な姿だろう。ミュージシャンならいざ知らず、ビジネスをおこなう企業が熱狂を生み出すなんて、普通まずありえない。「熱狂を生み出す企業」は、あらゆる企業が目指すべき姿ですらあると思う。企業として問題のあるふるまいをしているなら別だが、見事なサービスによって「カルト的」な熱狂を生み出しているなら、それは文句なしに素晴らしいではないか。

熱狂を生み出すブランド化した企業という稀有な存在にはもう一つライブドアというがあるように思う。そしてライブドアがブランドなり熱狂なりを生み出している理由とはこれはもうほぼ間違いなく堀江貴文という個人の才能なり能力によっている、といっていいのではないかとも思う。あるいはそういう風に「みんながなんとなくそう思っている」と言ってもいい。
ではオレがはてなの幻想資本は近藤淳也氏個人によっている、というのがこれと同じ意味かというとどうもまるで違うようだ。
この違いを項羽と劉邦の違いとしてここではカリスマ志向と徳治志向と呼ぶことにする。


【カリスマ志向】
とにかく項羽の活躍は華々しかった。個人としての才能は誰もが認めるところで戦いにおいても連戦戦勝。そして独裁のワンマン経営。この個人の突出した能力によるカリスマ性が人を惹きつけるし、それが一方向に大きな川の流れのようなものを作るイメージ。


【徳治志向】
劉邦はそれに比べて個人の能力が特に優れていたわけではない、と言われている。代わりに臣下の進言を良く聞いたしゆえに有能な部下がたくさん集まってきた。これを徳といってもいいし器といってもいい。とにかく個人の能力という「中身」ではないのだという事。
「天子南面」という言葉があって徳を持った天子は夜空の中で唯一動かない北極星に例えられた。この北極星の周りを他の星々が周る・・・とこういうイメージでいうとカリスマ志向が一方向の大きな川の流れのようなイメージであるのに対して徳治志向のそれは台風とかハリケーンのようなイメージ。




同じように人を惹きつけ動かすにしてもこういう違いが多分ある。といってもカリスマ志向の分かりやすさに比べて徳治志向のそれは非常に分かりにくい。徳とか器とかって何だ?となるわけだけどこれについてはこの辺を参考。
雑誌『プレジデント』の公式サイト
司馬遼太郎の『項羽と劉邦』を引きつつその辺を考察している。とにかく中国ではこの徳を持った人というのが好かれるようだ。三国志でも劉備というのが同じように個人としては対した能力はなく、大きな器なり徳なりを持っていた人として好意的に描かれている。この事は劉備が高祖劉邦の末裔を名乗っていたこととも関係しているようだ。徳があったから末裔とされたのか、末裔を名乗ったので徳があると見なされたのか。いずれにせよその大元が劉邦であって有徳の人の一つの典型と見なされていたのだと思う。
でこの徳というものを考える上で一つのキーになっていると思うのがいわゆる「性善説」というもの。人をその本質において悪と見なすか善と見なすか。例えば上のリンク先でも司馬遼太郎劉邦の「高貴な愚鈍さ」を褒め称えているが、なぜ愚鈍である必要があるのかという疑問。
その一つの答えがこの性善説にあるんじゃないかと思うのである。人を本質において善と見なし信頼するということは同時に欺かれ裏切られるということでもある。こういった裏切りによって人を疑うようになるならまぁ普通。それを押して徹底的に信じ続けるなら傍から見れば愚鈍に映っても不思議はない。多分この辺に鍵があるような気がしている。
はてなは陰に陽にユーザーへの信頼、例えば何でもオープンにするというような行為などを通じてこの人への信頼という強力なメッセージを発し続けている。これが非常に良質なメッセージになっているように感じるのである。堀江氏がジャーナリズムというものに関して「ユーザーが価値判断すべき」ということを言っていたがこれなんかにはその向こうにお金というのがほのみえるしそれを堀江氏も隠そうとはしていないようだ。要するにこのメッセージはユーザーへの信頼というよりはお金に対する信頼とでもいうしかない。あるいはそういう風に受け取られるのだと思う。
そういうものと比べてもはてなの人に対する信頼というメッセージは他と質が違うと思うのだがどうなんだろうか?
まぁともかくこの辺に徳というものを考える上でのヒントがある気がしている。




でもう一つ。
岡田斗司夫は顔が見えない大企業より小さくても顔の見えるベンチャーがこれからは有利、と書いていたがこの顔が見えるというのも幻想資本の源泉は最終的には個人による、ということを示唆しているように思える。のだけどここでちょっと面白い類似がある。
項羽と劉邦において項羽はなんせワンマンだったので項羽の陣営にはあんまり有名な人がいない。が一人だけ有名な人がいてそれは絶世の美女といわれている「虞美人」である。大体項羽というとこの虞美人との最後の時のエピソードが有名。
何が言いたいかというとライブドアでも堀江社長以外にもう一人有名人がいてそれが「美人秘書」だということ・・・。
一方劉邦の方には有能で有名な部下が少なくとも三人はいる。
張良韓信と蕭何である。そしてはてなにも近藤社長以外に「顔の見える人」が何人かいる。
張良は優れた軍師と言われていてこれは梅田望夫氏といった感じ。
韓信は元々楚軍に身を置いていたが自分の才が認められず嫌気がさして脱走し後自分の才能を生かしてくれる劉邦の元に、というエピソードから伊藤直也氏といったところ。
蕭何は補給の達人で縁の下の力持ち、ということで近藤玲子氏、もしくはシナモンw
(以上はhttp://homepage3.nifty.com/syunjyu/ここを参考)
とまぁこれらはネタといえばそうなんだけど、つまりこういったところにそのブランドの企業のあり方の違いみたいのが出ているな〜と思うわけです。はてなにおける顔は何も近藤社長だけではなくこういった人達にもよっていて、そしてそれがユーザーにもよく見える。この事が非常に重要なんではないかと思う。




以上の「堀江と近藤=項羽と劉邦」という類比はちょっと褒めすぎかもしれない。あるいは堀江社長近藤社長を対比するというのもライブドアが全国区であるのに対してはてなはまだまだネットの一部の人しか知らないと思われるのでこれを同列に扱うのもちょっと違うというのもあるかも。(といっても項羽と劉邦も元々は力の差が歴然であったのでこれはアナロジーとしては問題ないと思うけど)
ということでこの話はあくまで企業にブランドという幻想資本がいかにして生まれるか、というのがメインのテーマでその辺の分析として書いてます。んで要するに「徳」というのがこれから非常に重要な概念になるのではないか、そしてそれによる徳治思想が新しい企業のあり方になっていくんじゃないか。というのが今のところの結論。


続き・・・



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