(2)ポジティブなソーシャルキャピタル、ネガティブな世間

ソーシャルキャピタルという言葉はアヤしい。前回紹介した『なぜ今ソーシャル・キャピタルなのか』は5回分も書いていながら世間について一言も触れていない。いや実は暗には触れていたりする。
http://japan.internet.com/public/report/20040210/1.html

この中でも、「ソーシャル・キャピタル」の概念を理解する上で最も基本的な分類が、「結合型 briding」と「橋渡し型 bonding」というものである。「結合型」は組織の内部における人と人との同質的な結びつきで、内部で信頼や協力、結束を生むものである。これに対し、「橋渡し型」というのは、異なる組織間における異質な人や組織を結び付けるネットワークであるとされている。

一般的には、結合型は社会の接着剤とも言うべき強いきずな、結束によって特徴づけられ、内部志向的であると考えられる。このため、この性格が強すぎると「閉鎖性」「排他性」につながる場合もあり得る。これに対して橋渡し型は、より弱くより薄いが、より「開放的」「横断的」であり、社会の潤滑油とも言うべき役割を果たすとみられている。

ソーシャルキャピタルは「結合型」と「橋渡し型」と二つに分類され、この「結合型」というのがいわゆるムラ社会的な日本的な世間という意味を持っているようだ。そしてそれは「閉鎖性」「排他性」という言葉によってネガティブな側面が強調される。そしてどういうわけだか橋渡し型にはポジティブな意味しか付与されていない。
少なくとも日本において。
あえて世間といわずソーシャルキャピタルという言葉を使う場合、それは橋渡し型の方を意味していると考えていいと思う。つまりこういう事。


世間=ネガティブな古い結合型
ソーシャルキャピタル=ポジティブな新しい橋渡し型


要するになぜ世間に触れないかというとそれが今日の日本においては古くて嫌な打破すべき対象、と考えられているからだと思う。
だけど本来、このソーシャルキャピタルは日本的世間を再評価するような概念としか思えない。
http://japan.internet.com/public/report/20040127/1.html

イタリアでの研究をもとに、パットナムは次に自分の母国であるアメリカにおけるコミュニティの崩壊、すなわち「ソーシャル・キャピタル」の衰退に注目することになる。

2000年の著書 Bowling Alone において、パットナムは地域のボーリングクラブには加入せず、一人で黙々とボーリングをしている孤独なアメリカ人の姿を象徴として、アメリカにおける「ソーシャル・キャピタル」の衰退状況を、包括的な州ベースのマクロデータを基に実証分析した。

その結果、アメリカにおいては、政治・市民団体・宗教団体・組合・専門組織・非公式な社交などに対する市民の参加が減少していることが幅広く検証された。ソーシャル・キャピタル衰退の主な要因としては、TVの台頭・女性の役割の変化(社会進出)・人々の地理的流動性の増加・ライフスタイルの変化・市民参加に関する価値観や行動の世代間変化などが指摘されている。

日本のことか?という感じだけどJapanese Social Capitalとしての世間も戦後ほぼ一貫して衰退し続けてきていると思う。だからこれはいわゆる個人主義というものへのアンチテーゼ、として出てきた、はず。そこで日本的世間の再評価、という流れになるのが自然だと思うのだけどどうもそうならないで相変わらず批判的にしか捉えていないようだ。世間は。
ということで世間2.0というアプローチの方が適切なのではないかと考えたのだけど・・・これ実はもう結構前に大枠としては考えていたことだったりする。コメント欄でも書いたのだけど山岸俊男の『安心社会から信頼社会へ』について(って本は読んでないけど)
前回記事の補習 - ぶろしき

論文とか色々載ってます。専門的な用語が多くて難解だけど安心と信頼の違いなどによる「信頼」という言葉の定義が凄く興味深かった。日本が安心社会、アメリカが信頼社会というそれまでの常識を覆す見なしも面白い・・・が、これからはアメリカ型信頼社会を目指そう、という結論には全く納得できない。直感的にもアメリカの信頼社会とは訴訟社会、銃社会というものと分かち難く結びついていると感じる。だから当然そこで考えるべきは「日本型信頼社会の構築」、なはず。でなければアピールするはずがない。そうだとするといわゆる日本的「世間」からの系統発生というのが重要になりそう・・・

というわけでその時も同じように感覚的な違和感があって世間が重要だよな〜と思ったわけで、アメリカ型の信頼社会を理想、なんてのはやはりどうもおかしいのだ。ソーシャルキャピタルとは歴史的な経験的な蓄積によってしか生み出されえず、日本的世間は世界的に見てもおそらく最も長い歴史のある大きな財産であると思う。これの「継承」を踏まえない話に納得がいくはずない。
で。
新しい「日本型信頼社会」を世間というものを肯定した上で考えるなら多分次のことに同意しなければいけないのだと思う。

  • 個人的利益より自分の属する世間的利益を優先する人、を理想とする社会

・・・これはいかにも今までさんざ批判されてきた古い日本人のあり方だと思う。果たしてこれに同意できるだろうか?
世間2.0とは世間のあり方が変わるのであってそこに住む人の行動の指針が変わるわけではない。世間への信頼とは自分の属する世間の為に働くことが結局は自分の利益(幸福)を最大化することになるだろうという予測への信頼、と考えられる。継承されるのは、というかされてきた核の部分はこれであるのだと思う。
で。
世間2.0はあくまでネット上に成立するものとしている。いわゆる世間に問題があったのはまさしくそれが結合型であり閉鎖的で外部(異なった世間)へ開かれていないから、だろう。だから自分の属する世間の利益を最大化することがそれ以外の世間、あるいは全体的な利益を大きく損なう恐れがあることに問題がある。(参考:http://members.jcom.home.ne.jp/second/_tqN7U-A.html)だけどネット上に成立するのであればそれはネットであるがゆえにどうしたって開かれざるをえない。異なった世間の視線に晒される可能性、あるいは世間間の人の移動が常にあってその枠は相当緩やかだ。つまり


結合型から橋渡し型へ=リアルからネットへ


ということで世間2.0はネット上に成立するものと定義してる。ただこれだと単にネットは現実になるというだけで何も新しいことはないようだけど、当然ここではネットによってのみ成立する新しい世間を想定している。地域であったり会社というのが現実の世間としてあるだろうが、ネットでそういう縛りは必要ない。世間的利益を優先するといってもその属する世間が志向している幸福と一致していなければ個人の利益にはなりにくい。つまりネットでのみ成立するものとはより思想的な生きること自体の志向性に基づいた、あるいはそれをはっきりと象徴的に示したかたち、になる。というかなって欲しい。それが一つの理想。
その志向性はどうやって計るのか。それは自分がどんなページを見ているか、でほぼ分かる。ネット上にはとにかく無尽蔵にページはあってその中でどういうものを選択し見ているか、はそのままその人の世界観、その志向性を端的に表している。であるがゆえにネットに対するイメージは人によっておそらくまったく違うものになっている。今はホントにそれぞれバラバラなだけかもしれないがそこにいくつかの中心点ができてくるかもしれない。それが例えばソーシャルブックマークだ。SBMのその最も大きな効果は多くの人に同じような世界を見せること、そして近い世界を見ている人同士を出会わせる、ということだと思う。これがそのまま新しい世間の中心点になるかもしれない。とも考えられる。


ということでホントは「2ちゃんねる=世間」説を補強するつもりが何かちょっとずれた。多分ここで使った世間の意味合いと2ちゃんねるを世間とする時のそれはちょっと違うのだと思う。それはもっと例えば「そんなことは世間が許さない」という言葉がかつて持っていたはずの何だか分からない畏れ、に近いような気がする。その主体の無い匿名性にしても保守的な感情的な傾向にしても。凄く古いかたちのそれを正統的に継承してるのかも、とか思ったり・・・
続く。