(6)「ネットのリアル化」を巡る議論の混乱にそろそろ終止符を打・・・ちたい

ネットはいつ「リアル」の仲間入りするのだろうか: H-Yamaguchi.net
catforgさんに見抜かれてるのが悔しいとこなんだけど確かにこのエントリには色々思うところあり。といってもこのエントリ自体は普通に興味深く読んでちょっと別なアプローチで語れるんじゃないかとかあれこれ考えてたりするんだけど、ただそもそもオレは現在のネットを非リアルと定義した上で「ネットのリアル化」を語ること自体にそれはちょっと違うだろと考えてる。「リアル」って言葉が大体議論の混乱の元なんです。なぜなら何をリアルと感じるかが人によってまるで違うからそこでどうしても話がすれ違ってしまう。ということで「リアルって何だ」ってことも含めて「ネットのリアル化」を言う人の心理について。


上の記事のブクマコメントにもあるけどネットは人によってはもう十分にリアルだったりする。特にネットの世界に積極的に参加してアクションを起こしている人にとっては。しかし同じようにネットの世界のアクションの一つとしてブログを書いて参加しているにも関わらずネットを虚構、バーチャルなものとした上で「ネットのリアル化」を語る人がいる。いったい何が違っているのか。
リアルというのをオレは一先ずこういう風に定義する。


リアル:
自らの行動がその世界を変化させ、その世界の変化のフィードバックを受け自分も変化し次の行動へ、というループが成立していること。によって感じる生きている実感。


これ実は養老先生が「学習とは何か」ということについて書いていた話のパクリ。
例えば赤ん坊が手を動かす。その動きは五感の刺激を通して再び脳内にフィードバックされる。手が動いているのを見ている赤ん坊にとってそれは「世界の変化」。このアウトプットによる世界の変化、のインプットが新たなアウトプットを生むという循環を繰り返すことによって赤ん坊は手の動かし方を覚えていくわけでこれこそ学習なのだ、と先生は言う。だから学習ビデオなんかを見て勉強するのは違うのだ、みたいな話になるんだけどオレはこれがリアルの定義にもなるんじゃないかと考えた。
リアルっていうのはつまり「生きている実感」というような意味なわけだけどただいくつか条件はあると思う。その“世界”にある一定以上の価値があると信じられていなければならない。もしくはいくつかの世界に同時に存在しているという状況においては相対的に見て最も価値があると信じている世界以外にはあまりリアルさを感じない、というような。でも一先ずはリアル=生きている実感を生んでいる基本の部分は上のようなフィードバックが成立していることが重要なんだと思う。(どんなに“世界”に価値を感じていても自らの行動がまったく世界を変化させない、のならそれは虚構だという)




一流の数学者には「数学の世界」をリアルに感じる人がいる、らしい。普通の人には「数学の世界」にリアルを感じるなんてちょっと想像が付かないんじゃないかと思う。もちろんオレにもさっぱり分からないけども、でも上の定義で考えればその経緯は理解することはできる。要するに普通の人にとって数学とはただ一方的に学ぶものであってどんなに勉強したところでその数学の世界そのものを何一つ変化させることはできない。が一流の数学者であれば自らの思考やアイディアによって数学の世界そのものを変化させることができるし既にそういう経験をしている。自らの行動が世界を変えそしてそれがフィードバックされる、というループが成立しているわけだ。そして当然のように一流の数学者とは「数学の世界」に他の誰よりも価値を認めている人たち、でもある。だから彼らがそこに「リアル」を感じていてもちっとも不思議なことじゃないんだと。


というのが大体オレがリアルというものについて考えてることなんだけどこれでいえばやっぱりネットはもう十分にリアルなのだ。そう感じている人は決して少なくない。ネットへの参加は何らかの形でその世界自体を変えているのだしブログなんて書いている人の多くは文章が否定されれば人格を否定されたように感じる、程度には“本気”でもある。ただのゲームなわけではないはず。
というわけで改めてネットを非リアルと定義して「ネットのリアル化」をブログで言う人の心理を考えてみる。
オレの見るところ彼らの殆どはブロゴスフィアの中において普通の人よりむしろ影響力の大きい人が多い。自らの行動(アウトプット)がその世界を変化させる、その振り幅が大きいわけだから本来普通の人よりより強い「実感」のあるのが自然なはず、なのだが・・・じゃあそういう人たちはネットの世界そのものにあまり価値を感じていないのか。というとどうも全然そんなことはない。これまた普通の人よりむしろ将来の可能性も含めてネットを高く評価していて、というかそうでなかったらブログに長文なんか書かないだろう。そしてネットの世界はちっとも狭くなんかなく広大。
その広大な世界において普通の人より影響力を持ちえてかつその世界への価値も普通より高く評価している人がなぜそれを非リアルないし虚構と定義するのか。
ここまでは上の数学者の話と矛盾するわけだけど結局彼等がネットのリアル化という時の「リアル」って何だ、ということになるわけだけど


(5)ブログ、セケン、コミュニケーション - ぶろしき
それってつまり「世間」だよね、というのがオレの結論。オレの見るところネットのリアル化というのは「世間化」ないし「社会化」と翻訳してまず問題ない。そう考えれば話はすっきりするんです。どんだけ影響力を持ってもネットをリアルと定義しないわけも。


彼らは信じて疑っていない。世間こそがリアルなのだということについて。
なぜそこまで強い信仰を持ちえているのか。
その世間(会社とかギョーカイとか)の中での自らの行動が世間全体を変えている、そういう強烈な自負なり実感を持っているから、なんである。
そして結局。
ネットのリアル化なんかを言う人にとってのネットとは「自らの所属する世間での影響力をより高めるための道具」でしかないのだ、というのがcatfogさんのhttp://plaza.rakuten.co.jp/catfrog/diary/200505300000/例えばこのエントリでの話。
ネットは「道具」なのかまた別な「世界」なのか。「世間」に従属するものなのかそれに対抗する「何か」なのか。この辺が対立軸になるんじゃないかと思ってる。


というわけでまぁこういう話として読んでるんだけど当然?オレは後者であってそういう流れに批判的というか違うだろって思ってる。もっと別な意義があるだろうというので[世間2.0]というシリーズを・・・って結局世間かよ!なわけだけどまぁもっと別な可能性を考えてる。
んだけどつい最近凄いエントリを見つけてしまった。


*1圏外からのひとこと(2004-03-22)−世間、社会、権力、そしてネット

「社会」と「世間」が分離されてない社会では、「言論」との距離感が非常に難しいのです。間違った場合に救いがない。そういう社会ではネットに対する期待はより大きいものがあるのです。「言論」の媒体としてのネットではなくて、「自立した個人」が声を上げるためのネットではなくて、ネットにしかできないもっと別の何か。ただ、それが具体的にどういうものか表現する手段がないだけです。その必要性を声高々に「言論」として表現することは難しい。どうしても潜伏してしまうのです。表面化、言語化しないけど、そういう切実なニーズがあると私は思います。

こちらのエントリには激しく共鳴して久々に感動といってもいいぐらいのものがあった。そうそうこういうことなんだよな〜と。オレがぼんやりと感じてたのは。というかこれをオレが書けなかったのが悔しいなとwいうのもあるんだけどともかくこれをもって[世間2.0]の(7)としたいぐらい、というか勝手にしてしまうことにします。


>「言論」の媒体としてのネットではなくて、「自立した個人」が声を上げるためのネットではなくて、ネットにしかできないもっと別の何か。


これこそがネットに求められている最も切実な大きな意義なんじゃないのか?と。
でもってそろそろネットのリアル化を巡る議論の混乱は終わりにして欲しいと思う。




◆関連
世間2.0のまとめ

*1:現在「圏外からひとこと」はサーバダウンしてるためURLは変則的なものになってます。本来のこのエントリのURLは「http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20040322#p06」です。