無駄と余剰の進化の話

2006-04-14
ライオンとシマウマのたとえ話とシマウマ進化論: ラオスー


進化に関する話で俺がおもろいなーと思うのは「ハンディキャップ理論」というやつ。

孔雀(雄)の羽の美しいわけについてとか主に自然淘汰に対する性淘汰の話。生きていく上で必ずしも有利でない、場合によって不利になっている形態とか行動がなぜ成立しているのかの説明なんだけど、
受験のハンディキャップ理論
http://iimin.blog.ocn.ne.jp/lion_on_line/2006/02/post_69a8.html
学歴とかタバコ吸ったり酒を飲むのもハンディキャップ理論で説明されたりする。ここまでくると何だか眉唾だなーと思わないではないけど、ともかくこのハンディキャップ理論が成立するためには「種としての生き延びる力」が「環境からの圧力」を大きく上回っているのが前提。生物もある程度以上環境に適応してれば結構余裕持って生きてるみたい。そこである意味「無駄」な能力を獲得してたりするという。
ちなみにウィキペディアによるハンディキャップ理論の説明でのライオンの前でジャンプするガゼルの話はカツアゲされる中学生を思い起こさせて笑える。



余剰による進化

あと例のごとく養老先生が書いていたものなんだけど「余剰」が大きな進化をもたらすという話もある。

  • コウモリは木にぶら下がって逆さになって後、空を飛んだ

というのが養老先生の説。
これはどういうことかというと木に後肢でもってぶら下がることによって前肢が余る。それまで身体を支えるとか木につかまるとかの機能的制約の掛かっていた前肢がそういった制限から開放されて自由になる。そこで初めて前肢を翼に変える事が可能になるということ。
これは恐竜から鳥への進化についても多分同じことが言えてまずは四本肢から二本肢で歩けるようになる進化が鳥が前肢を翼に変える上での前提。機能的制約が解かれて初めてある自由度を獲得する・・・わけだけど、かといってそれが新たな能力、新たな機能を担うことになるとは限らなくて肉食恐竜の前肢のように徹底的に退化してしまうこともある。あれはもう殆ど何の機能も果たしてないように見えるわけで、こういう違いがなぜ生まれるのか不思議なんだけど一方せっかく凄いコスト掛けて前肢を翼に変えて生態圏を大きく変えたのにダチョウみたいに地上に戻って翼を退化させちゃうヤツもいて、なんかこの辺は結構いい加減だなーとか思ったりする。
んでもう一つ面白い余剰といえばヒトにおける大脳。猿と人間の距離はこの大脳がむやみやたらに大きいというのがもたらしているわけで、でそれは結局ほんらい必要のない余剰なのだという。この余剰っていう考え方を知った時はすごく新鮮だった。ひきこもり的に。ひきこもりもある意味余剰なわけなので・・・


とそこで思うに。
陳子が想定されているライオン(天敵)が居なくなるというような状況において無視できないと思うのはシマウマにとっての例えば速く走るというような能力がその時点で「余剰」になってしまうということなんですよね。それまでは生きていく為にどうしても必要な能力だったはずのものがそういう根拠を失って、別になくてもいい能力になっちゃう。
これ例えば人社会における環境の改善とか豊かになるってことがどういうことかを考える上でも重要じゃないかと思う。それは常に大量の余剰を生み出す。生きる為に必要な能力というような根拠を失わせる。
こういう余剰をどう考えるか。
とりあえずオレはできれば恐竜の前肢でなく鳥の前肢になりたいなーとは思う。