進化のはなし

進化論への違和感はやっぱりある。それをどう言語化するかってとこがおもしろいんだと思うけど、養老先生のそれが絶妙。
子曰く、
ダーウィニズムは壊れない構造をしている。ダーウィニズムという理論自体が科学の中で批判に晒されながらも少しずつ形を変え、ともかく現在まで生き残ってきた。まさに適者生存による進化。理論の内容が理論の形式を正当化している。この構造があやしい。
超意訳。
これかなり意表を突かれた。まぁ半分冗談なんだけど。これを突き詰めるとダーウィニズムが説明しているのがホントに生物の進化のことなのか、それとも人間の脳を説明してるのかというとこに行き着く。理論が最適化しようとしている環境とはヒトの脳、というふうにも考えられるから。(ここに同じような話)
もっともこういう視点から見たダーウィニズムって正しいかどうかを別にすれば非常に構造として美しい。内容がその形式を決定しているというか、フラクタルな構造とでもいうのか。
ある意味完璧な形。


とこういうのも踏まえつつ上のエントリとか読みながら考えてたことなんだけど。
http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20061230#1167421027

つまりぼくは「淘汰によって環境に適した形になることがある」という、いわゆる「自然淘汰」、この概念は「トートロジー」もしくは「公理」みたいなものではないのかな?と考えているわけです。「恒真(生存者=適者)」か「定義(生存者⇒適者)」である。ゆえに実験不可能なのではないかなぁ、と。ゆえに――進化論の“半分”は、ニセっぽい雰囲気アリ。そう感じるのですよ。

「環境に適したから生き残った」は「生き残ったものが環境に適してる」と同じ意味で、というかむしろ後者であってこれは因果を説明してないだろーと。この指摘は激しく納得。
でオレが気になるのはもう一つ「環境」という言葉の方。これも考えようによってはトートロジーっぽくなりそうだと思うのだった。つまりある生物の「生存環境」と「形態的変化」はイコールで結ばれる、殆ど同じ意味になりえるんじゃないかと。


例えばカエルの目は動いているものしか見えていないらしい。つまりカエルにとっては動いていないものは存在しないに等しい。(実際は他の感覚器官もあるから違ってるけどここでは無視)
ここでカエルの目が適応すべき「環境」とはどの世界のことなんだろう。客観世界なのか主観(認知しうる範囲の)世界なのか。
仮に突然変異だかで動いてないものも見ることのできる、そういう目を持ったカエルが誕生したとして。その時、同時にそのカエルにとっての生存環境はまったく変わってしまっている。適応すべき環境自体が。
それまでのカエルがスルーしていたものをそのカエルはスルーできなくなる。当然行動は変わらざるをえなくなるし、行動の変化は形態的変化も促す。(ちなみにこの時起こるだろう行動、形態的変化のほうはまさにそのカエルの主観世界に対する適応という形で起こる)
今まで見えなかったものが見えてしまうとはこういう意味だろう。
つまり認知に関わる感覚器官の変化は、その生物が適応すべき世界、環境自体の変化を伴うわけでこの二つを分けることはできないんじゃないかと思うのだ。「環境にもっとも適応した生物が〜」という説明がちょっと無意味なものになるんじゃないだろか。
しかし肢の筋力が増大しただけで行動範囲が拡がったりするかもしれないわけで、そこまで考えるならどんな小さな形態的変化も適応すべき環境自体の質的、量的変化を伴っていると言うこともできそう。
結局「環境」と「形態の進化」を単純な因果で結ぶ、もしくはそもそもくっきりと分けてしまうことに大きな違和感があるんだと思う。


おそらくここまで書いたような発想は今西錦司の「棲み分け理論」というのに行き着くのかも。「生物は適応しやすい“環境”を見つけたものが生き残る」というダーウィニズムへの逆説みたいなものに。まぁこれはこれで日本人の脳にもっとも適応した理論という感じっぽいんだけど。



生物の目的

進化論が科学じゃない気がするっていうのは生物の進むべき道というか目的への答えが含まれるからじゃないのかなーと思う。それは結局人間がどう生きていくべきかという方向をも規定してくるわけでこれを科学がやっていいのか?みたいな不安。
進化にもし目的があるとして、でもその最終的な目的はまだ一度も達成されていないわけで、結果がでてないものを因果で説明できない。でも「進化」である以上それをまったく無視するわけにもいかず。
科学じゃないというよりどうしたって科学の範囲内に収まりようがない題材、という気がする。


ところで。
生物の目的は「情報化」じゃないかと思ってる。
いきなりであれだけども前にこことかで書いた養老孟司著『人間科学』の中での

  • 遺伝子(情報)−細胞(実体)
  • 言葉(情報)−脳(実体)

という二つの軸による対応関係。多分これ読んだ辺りから生物の目的は世界の情報化なんじゃないかと思うようになった。例えばこういう図式。
環境→生物→遺伝子
かもしくは
環境→遺伝子→生物
このどっちかを進化論は言っているのだと思う。矢印は影響力みたいなもの。
でこの矢印を逆向きにするとどうなるか。というかその逆向きの矢印が何を意味するかというと、それは何かの「表現」と解釈できるんじゃないかと思う。影響を受けた結果、はその影響を受けた何者かを表現したものである、という風に。
つまりは遺伝子を生物の設計図という範囲に収めちゃっていいのかというはなし。遺伝子が情報化して記述しているものには「環境」まで含まれているんじゃないだろか。
遺伝子→生物→環境
例えば遺伝子が水掻きの形態を記述していたならその生物の生存環境に水があることぐらいは分かる。まぁそもそも生物の発生する環境自体に条件があるので生物が存在しているってだけでも意味があるんだけども・・・
ともかく遺伝子を、環境を記述(情報化)したものであると仮定する。とこう考えられそう。

  • 生物は遺伝子というメディアに“世界”を記述している。

これを生物の目的と見なしてみる。ついでに反復説「個体発生は系統発生を繰り返す」というのを加えると記述してるのは今の世界だけでなく過去まで含まれそうなんだけども、それはともかくとして。
これでもう一つの「脳−言葉」情報系がやってるのも形式は変わったけど同じ目的ということにもなる。これは記述形式の進化。でもあくまで目的は同じ。


もっとも次の段階として、いったいなぜ情報化するのか、何のために?という問いが待ち構えてる。これがややこしい。
「生物の目的は○○である」と答えがあったとして、でも「何のために○○するのか」と問うことが「生物」には原理的にできない。それを問うものはもう生物という枠組みからずれて別な存在になるんだと思う。人間は「脳−言葉」情報系という特殊な方法論を持っているけど、でもこれだけでは多分まだ生物の枠組みの内。本当のところの真の目的、までは行き着けそうにない。
その先を問えるようになるのはやっぱりあらゆるものを徹底的に情報化しえた時。でその時にはおそらく、新たな問いを持つものとして生物ではない何か別な存在の形式も生まれてるんだろうなと想像したり。
まぁ結局目的なんてよく分からないってことか。