このブログがすごい

http://www.momoti.com/blog/
『ももち ど ぶろぐ』がおもしろい。
ちょっと調べてみたけど、はてブのレーダーにまだ殆ど捕捉されていない。
単著もあるというのに。
ストックだからなのか。

http://www.momoti.com/blog/2006/06/post_41.html

■日本的な「象徴の貧困」

さらに、スティグレールのいう「みんな」とは、日本語でいえば「世間」のことであり、「社会」ではないだろう。

であれば、私たち日本人は、「世間」が象徴界にあることには、慣れっこなのである。

それは確かに「象徴の貧困」だし、近代化先進国から見れば、個の未成熟であり、社会の未成熟であり、近代化の未熟でしかない。

しかしそこで生きる「われわれ」は、西欧の近代化とは違った、長い産業化の歴史(過去把持)を持つことで、「象徴の貧困」における生き方にミーム的に適応してきた。

それは、西欧の「象徴の貧困」に対して、ある種のヒントを提示できるように思える。

つまり今という時代は、日本人的なバイロジック(雑種性)にとっては、ある意味有利な環境なのである――私はそういう意味で、日本的なものを再評価しているに過ぎない。

この辺りなんかはessaさんの世間、社会、権力、そしてネット - アンカテの問題意識と重なってるように思うし、オレがWeb2.0を世間2.0に読み替えたのにも通じてると(私は)思う。


なにより桃語における「パトリ」というのが核心に触れていると感じた。http://www.momoti.com/blog/2006/09/post_192.html

■育成環境=種・中景

それは〈私〉が生まれ育った環境(育成環境)のことだと考えてもらってかまわない。

それは多くの場合、郷土や地域社会や学校や職業といった共同体性=種・中景のことである。

簡単にはこういう意味である。故郷や中間共同体のこと。そして国家を「類」と考えた時の「種」にあたるもの。私が私であるための基盤。「役割とマニュアル」の世界に対して「善意と自発性」が支配する生活世界。さらに、
http://www.momoti.com/blog/2007/01/post_395.html

「私」や「われわれ」を向上させたいという動機付け

を「私」に与えてくれるものである。

オレにとっては「ひきこもり」は既にしてパトリ(種)である。これは一見矛盾してるように見えるけどそうでもない。役割とマニュアルの世界の浸潤に対する消極的な抵抗であると見なせば、ある意味自然な成り行き。
とりあえず今のところそれは、こうしてブログを書く動機程度でしかないかもしれないが。
それからひきこもりのコミュニティにも関わっているけど、そこはまさに善意と自発性の支配する世界になって欲しいと思ってもいる。はたしてそこはパトリと呼べる位置付けにまでなることはできるだろうか。
2ちゃんねるなんかはどうだろう?
かなり近いんじゃないかな。動機があってそれをかなえる為、解消する為に利用してるのか、そもそも動機自体を与えている場なのか。多分後者を2ちゃんねらーと呼ぶんではないか。

 −−2chは内輪の話を表に出してトラブルになっている。

 ◆規模が大きいだけ。2chがなくてもネットがある限り、海外の掲示板などほかの場所に行く。

ひろゆきがこんなような主張をしてるのをちょいちょい見かけるけど、これは半分嘘だと思ってる。2ちゃんねるが失われればそれに動機付けられて行動している人達の欲望も失われるのだと思われ。。。


ってちょっとずれたけどこの辺りの話などが面白いなと(私は)思った。
内容はハードというか色々前提知識がないと理解は難しそうだけど、一先ず直感的に手応えありあり。
注目。