儒教と道教

アラスデア・マッキンタイアは『美徳なき時代』でそうした「不一致」をおおよそ次のように分析する。
マッキンタイアによれば、私たちが実際に住んでいる世界の道徳言語は無秩序に陥っている。伝統的道徳概念の断片を寄せ集めたにすぎないものを各々が手に取るため、道徳的な一致を確保するための合理的な方法がない。実際に道徳的判断がなされる際には「個人」の好みやその時の気分次第になっている。そうした判断は確固たる基準があってなされたものではないため、その態度を合理的に保持することはない。マッキンタイアの主張によると、このような情緒主義が近代社会に蔓延している。情緒主義は倫理思想としては破綻しているのだ。さらにマッキンタイアはこうした多元的な価値観を生んだ背景として啓蒙主義の存在を指摘する。啓蒙主義は、自然的事実から理論を展開したアリストテレスの目的(テロス)を拒否し、道徳を合理的に正当化することを試みる。ディドロとヒュームは情念によって、カントは理性によって、キルケゴールは選択によって人間を基礎づけるが、人間の目的を取り去ってしまった啓蒙主義の企ては首尾一貫性に欠けていたため、失敗せざるをえなかったのだ、とマッキンタイアは述べる。「神の死」によりその混乱はより強くなり、人間は「超人」的態度で道徳的判断を下すことを迫られる。こうした「野蛮と暗黒の時代」を生き抜くためにマッキンタイアは共同体主義(コミュニタリズム)を提唱する。
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/akishino(11-1-29)

アリストテレスの話の最も大きな現代的意義は人間の目的を設定したところにあると考えたが、そのような観点からの論考はすでにいくつかあるようだ。上記の記事はその意味で非常に興味深かった。

等は参考になりそうだ。
面白いのは有名なサンデル教授の理論もアリストテレスから繋がっているらしいことで、そしてここに登場したマッキンタイアと同じく「共同体主義(コミュニタリズム)」に解決をみているのも同じ。サンデル教授によれば現在我々の取りうる立場には、功利主義リベラリズムリバタリアニズム、そして共同体主義しかなくまぁ共同体主義が一番いいよね、ということで「最高善」ならぬ「共通善」というものをその理論の中心としているらしい。
とりあえずこのような大きな流れがあるということを頭の隅に留めて、ここでは別な観点から考えてみる。


アリストテレス孔子の共通点は中庸の徳だけではない。
そもそも彼らが「ニコマコス倫理学」「論語」において考えているのは理想的な政治の実現であり、そしてそれによってこそ人は幸福に生きられるという問題意識自体が一致している。
ただアリストテレスにとって理想的な政体が現前している「ポリス」にあり、その中でどのように実現するかという問題設定だったのに対し、孔子の時代は春秋戦国時代末期の乱世にあり、理想的な政体は今は失われてしまったかつての美しい国「周」に求められていた点だ。そのため孔子は自分の理想を実現できる国を求めて諸国を放浪し結局見つけられずに死んでいったが、当時どころかその後も儒教の理想を実現した国など結局一度も成立したことはない。このあたり孔子はいわゆる「引き返せない楔」に挑んで敗れた感がある。

1正しい行いをしようと思い、葛藤なしに行える状態。
2不正への誘惑を感じながらも、葛藤するも正しい行いをする状態。
3不正への誘惑を感じ、葛藤しつつ誘惑に負け不正をする状態。
4自ら不正を行い、葛藤がない状態。
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/akishino(11-1-29)

例えばアリストテレスはこのような分類を行い、1を性格の徳として最もすぐれたものと考えたが、これなどは論語の「不惑」「従心」等に近く、このような特性が後天的な修養によって、かつある程度年齢がいかなければ習得できないものと考えていた点も一致している。アリストテレスは子供に幸福は関係なく、若者は情念に従っていて徳など聞く耳を持たず、人生経験を重ねた人間にしか自分の言っていることは分からないと言っている。(他にも家柄や血筋、容姿なども必要とアリストテレスの考えは実に限定的で一部の人間にしか達成されえない)
他にも「素材が許す以上の厳密性を求めるべきではない」とアリストテレスは思索に大きな制限を設けているが、孔子でいえばこれは「怪力乱神を語らず」に当たる。この制限というものは現代においてなんらかの理想や目的を設定するにあたって非常に重要なものだと思われ、結局はどのような制限を設けるか、に行き着く問題だとオレは思っている。


そして両者の関係を別な視点から浮かび上がらせるのは老子によるとされる「道徳経」だろう。
「無知無欲」「無為自然」などの道教の中心的な考え方は、儒教の人為的なコントロールによる政治に対する批判的精神からでてきたものとも言われる。
アリストテレスが徳を人間の動物に対する卓越性として意味づけし、人間的な部分にこそより価値を感じ例えば最高の徳を知的活動(観照)に置いていることを考えると、老子が間逆の考えを持っていることは明らかだろう。なにより老子にとっての理想は赤子や幼児のように世界を体験することであり、アリストテレスが子供に幸福は関係ないと言っているのと実に対照的。
老子にとって人間の幸福とは腹が満たされて頑強な肉体を持っていればそれでいい、という実にシンプルなものだ。政治的には一種の無政府主義アナーキズムなのだろうが、ただアリストテレスもそもそもあらゆる人間の行動に善への希求があるとしてるので、このような教育などの方向付けのない自然状態という立場を否定するものでもないと思う。つまりほっといてもある程度の善は達成されうる。アリストテレス孔子が求めたのはより素晴らしく理想的な人間のあり方である。
さらに「善」について老子は面白いことを言っている。
お酒の名前にもある「上善水の如し」だ。最も良い善とは水のような「働き」をするものであると。水は一見当たり前のように存在しているが、おおむね人間にとって良い働きしかせず、反作用や副作用がないに等しい。善が時として他の誰かにとって迷惑極まりない行為に至ることを考えるとこの意味するところはよく分かるし、なによりこれは非常に中間的な定義だ。最も良い善がここではまるで中庸の徳に適ったものとして提出されている。水は多すぎれば洪水大雨などの天災ともなり、少なければ飢えて死ぬ。


これは最初のアリストテレスへの疑義である「なぜ善は最高善を目指し、ちょうど良い善ではいけないのか」に通ずるのだが、おそらく東洋人もしくは日本人にとって善は人間の目的とまでいえる地位がないのである。アリストテレスの考えは過剰で着いていけない面が多々あるが、それは最初の大前提になる「最高善=究極の目的、幸福」に無理があるからだ。
今の段階で善に替わりうるものとして、オレに考えられるのは「義」ないし「誇り」である。どこまで射程のあるものかは分からないが、少なくとも日本人でも動かしえるものとして「義」はあり、例えばある意味究極の目的を設定し邁進した第二次世界大戦における日本人の感性にも「義」は見られると思う。植民地にされ好き放題されていたアジアのため、などのロジックがそうだろうが少なくとも善ではなかっただろう。
そこに見られる大きな違いは積極性の有無である。善が積極的に選択され行為されるのに対し、義はあくまで起こったことへのリアクションとして行為される。忠義であれば恩義ある人の命令に従うか否かという局面で問題となる。義勇軍なら、何らかの紛争や動乱がまず起こって、それに対する自発的組織化として立ち現れる。
日本の歴史から考えると「義」を成立させ、それによって駆動していた存在は武士だろう。アリストテレスの考えはある意味エリート主義であるが、武士は大体人口の5パーセントぐらいで、貴族とは違った様々な徳性が認められる。その最も大きなもので民衆からの支持、敬意の前提となっていたのは、彼らが実にあっけなく死んでいく様だっただろう。
最高善、究極の目的はそれがなんであるにせよ、結局はその為に命を掛けられるか否かによって判別される。アリストテレスは病気になれば健康がその人の幸福で目的になる、と言っているがそこで問われているのは「生き残ること」と「幸福」の対立だろう。「生存」が脅威に晒された時に失われてしまう程度のものに究極の目的たる資格はない。
逆に言うなら生き残ることが目的であるならばこのような話は一切必要ない。アリストテレス孔子がある程度年齢を重ねなければ無理だと考える一因でもあるだろう。若いうちは生きることそのものに忙しすぎる。この話は老境に差し掛かった人かあるいは若いうちから人生に意味も価値も感じられない人に対して向けられている。これもまた必要な「制限」であるだろう。