義と儀と議と蟻

『敵に塩を送る』という有名な言葉がある。
いまさら説明するまでもないが、上杉謙信が宿敵、
武田信玄に次のような書状を送ったと伝えられている。

「聞く北条氏、公を苦しむるに塩をもってすと、
これきわめて卑劣なる行為なり、我の公と争うところは、
弓矢にありて米塩に非ず、今より以後塩を我が国にとれ、
多寡ただ命のままなり。」(新渡戸稲造著「武士道」より)
http://www.interq.or.jp/tokyo/sf46127/sub03/sub033/sub033.htm

義に厚いといえば上杉謙信だが、その謙信の義とは「我の公と争うところは、弓矢にありて米塩に非ず」というようなものだ。
これがフェアプレイ精神、スポーツマンシップに近いのはこれを米国に紹介した新渡戸稲造が日本にもそういうものがあることを証明する為にこれを書いたからだろう。
実際どのような書状が書かれたかは分からないが、なぜ弓矢で戦わなければならないかと言えば、それが権力の正統性に関わる事態だからだ。
鎌倉幕府以降は軍事政権なのであり、要するに戦争に強いことが正義なのである。卑怯な手段によって獲得された権力、とはつまりは軍事的裏づけのない権力のことであり、それは権力の基盤としての安定性を欠く。
なぜ武士が義を重んじるかそれに殉じる必要があるかと言えば、それは彼らが権力者であるゆえんだろう。正々堂々戦って得たものには誰も文句が言えない。そこに瑕疵があれば遺恨を残しそれは未来の反乱因子となりうる。
このような義は人口のたかだか数パーセントの武士にしか成立しない例外的なものに思われるが、結局それは日本人の多くが納得できるかどうかという感情に関わっており一種の説得の論理なのである。


日本の正義について考える時によく取り上げられるのが江戸の時代劇だ。
水戸黄門、遠山の金さん、大岡越前など徳川の親戚かそれに任命された裁判官によって正義は遂行される。
徳川家は長く続いた乱世の最終的な勝利者であり、江戸はその正統性を持った権力者によって統治された平和な世界で、そこでの正義は権力の統治機構とほぼイコールである。具体的にはより権力を持った人間の判断が正しい、とされる。

「だまりゃ!麿は恐れ多くも帝より三位の位を賜わり中納言を務めた身じゃ!すなわち帝の臣であって徳川の家来ではおじゃらん!その麿の屋敷内で狼藉を働くとは言語道断!この事直ちに帝に言上し、きっと公儀に掛け合うてくれる故、心しておじゃれ!」

http://dic.pixiv.net/a/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E4%B8%89%E4%BD%8D

水戸黄門に登場したAAで有名な「麻呂」こと一条三位は印籠を見せられてもまったく怯まずこう反論した。同じ三位中納言水戸黄門は結局より上位の大納言を召喚することによってしか問題を解決できなかった。水戸黄門の物語構造の矛盾が麻呂のキャラクターに集約されてしまったので、あのような過剰な演出に至ったようだ。
ただそこにはより権力を持ったものの方がより公正公平な判断を期待できるという洞察がある。
賄賂について考えればそれは当然のことだろう。賄賂がいけないのは中間権力者による公的な資源の搾取にならざるをえないからで、上位のものにとって下位のものによる収賄は許しがたい行為になる。従ってより権力に近い、より公的な存在ほど賄賂を不正と認識するので、公平な判断が期待できる。
権力は結局より大きなものを志向するならば、なかば必然的に人々に対して公正公平にならざるを得なくなるもので、そしてより多くの人に支持されることがより大きな権力に帰結するという性質があると見ていいだろう。


義は乱世においてはほぼ鹿の角のようなものだと見ていいと思う。オスはあの角によって縄張り争いやメスの争奪戦を行うが、生きていく上で必要なわけでないのはメスにないことから自明だろう。あの入り組んだ角は仲間同士の争いで無用な殺生を避け、純粋な力比べをするというスポーツマンシップやフェアプレイ精神の具現化であり、それに敗北するすれば縄張りやメスを諦め相手に譲らなければなければならないという権力の正統性そのものである。
一方平和時特に江戸時代の義はほぼ「公儀」のことであり、それは猿山の秩序に近く争い自体を生じさせないことを旨とする。序列の徹底化と誰が何を決めるかの明確化によって正義は規定される。
そして現在はといえばこれは「公議」とにんべんからごんべんに替わったものが代替していると考えられる。公議政体論といえば坂本竜馬らが欧米の議会制度に範をとった構想であるらしいが世論とほぼ同義でもあり、要するに言葉という抽象に権力の根拠は移り、一見すると極めて人間的で他にないもののように思えるが、オレにとってその世界は蟻の社会そのものである。・・・と書いてみてアリが虫偏に義であると気づいて妙に納得する。
少なくとも内部的には一切の争いが無く全てが機能的かつ合理的にデザインされた蟻の世界は義の貫徹された理想社会であるといえる。それは徹底的な管理社会によるディストピアを想起させるけども。


以上、日本における義の転換を考えたが、それはつまるところ全て権力に関わっており、そして一貫して「無用な争いを避けること」をその目的としている。
逆に言えば社会的動物でありながら他の生物では考えられないほどの自由度を持ったヒトでは、ほっておくと無用な争いが絶えないということを意味しているのかもしれない。
ここまで義をかなり世俗的、合理的にもしくは非宗教的に捉えてきたけども、そもそもの原義に含まれる「美」についてはやはり孔雀の羽で説明するのが手っ取り早い。
孔雀のオスの羽が美しいのはそれがメスの獲得に有利だからである。
鹿がメスの獲得に角を使っているのと同じように。
鹿の角もオブジェに使われるくらいその幾何学的な美しさが認められている。
それらは現実的な生活上の有効性や合理性という制限から自由であり、余剰である。
しかしその余剰が勝敗を決し、その生物種の権力構造を規定するものになりうる。
余剰はより有効である、合理的であるという点から評価されるのでなく例えば過剰さが評価になることがありそれが美意識に関わってくる。
生物としてのヒト社会の権力が公議という言語操作能力、シンボル操作能力などによって規定されるところに落ち着いたのは、大脳がヒトにとっての余剰であることからくる必然性があるのだろう。
乱世と治世の幸不幸は色々違うが、殆ど完成に近い江戸期と現在の日本に住む人の幸不幸を比べたり、考えるのはほぼ無意味である。そこそこの幸福ならとっくに達成されており、それ以上は少なくとも政治的には影響は限りなく小さくなっていく。何を決めようが現実の生活の幸福度にはさしたる影響がない。
そもそも現代的権力の基が農業による余剰資産の発生にあるという話であるから、元々実際的な生活の用という視点からは関係がないものについて争っているふしもある。
なぜ美的な観点から政治は行われないのだろうか。より美しく生きるということが余剰生活者にとって最も大きな関心とならないのはなぜか。
そもそも世界を見渡せばいまだ食うに困る住むところに困る人が大半である国もたくさんある。源氏物語の御伽噺のような美しい世界も彼らが同時に政治を司る権力者であり、その背景の地に飢饉などの厳しい現実を生きる人々の世界を抜きには成立しえず、そのグロテスクな状況は誰が、どこが政治的に解決するのだろう。
何のための余剰なのか。