死刑と島流し

死刑反対論の根拠としてよく言われるのは冤罪の可能性で、死刑にしてしまえば取り返しがつかない。人間のやることだから間違いは必ず生じる。
だけど、死が取り返しがつかないことなので何も決定できないとなったら、例えば延命治療の中断や選択もできなくなる。延命とは治療する側の論理であって、本人が奇跡的に回復し生き残る可能性はあり、そんなことは誰にも断定できるものではない。
むしろやったことが間違いないものだとしても、どこでやるかで刑罰が異なることの方が問題の根は深いだろう。国によって司法制度は異なる。これはあらゆる司法制度はなんらかの真理や絶対的根拠を持ったものでなく、それぞれの国のそれぞれの事情に即した便宜的なものであることを意味するし、人々の実感でもある。だから軽微な犯罪はしばしば普通の人が平気で犯し反省もない。つまりなんの信仰の対象でもない技術的なものに過ぎないものに死刑を求刑、実行するだけの根拠があるのだろうかと。特に何の罪も犯したわけでない者が執行しなければならないというのはかなり微妙であり、政治家は中々判を推さないし、執行は誰がボタンを押したかわからないように設計される。まともな人なら縁もゆかりもない人の死はできれば負いたくない。


牢名主は江戸時代にできた制度で、幕府が囚人から選んで任命した役人であるというのが面白い。榎本武揚など旧幕府軍の軍人は一般の罪人と同じ牢獄に入れられたが、牢名主となってそこそこ快適な暮らしをしていたようだ。http://www.page.sannet.ne.jp/tsekine/book1-2.htm
本来体制側が行うべき管理を委任委託するものとして町内会もある。戦時中に制度化され、一旦GHQに解体された後に再組織化されたらしいが、今は特に法的根拠がないという。町内会費を払わないからといってゴミだしできないようにするとかそういう脅しは違法であり、かといってゴミ集積所の管理を自治体は町内会に任せているというのが実態。竹島のように法的根拠のない実効支配、なのである。http://etrader.sakura.ne.jp/freehouse/chonaikai.html
もう一つは納税。サラリーマンは納税の義務と手続きをほぼ企業に委任している。国が委任してるのか個人が委任してるのかしらないが、国民主権なのでどっちでもさして変わらない。とにかく税の徴収は国の権限であり役人が行う&個人が義務として納めるべきであるが、民間企業が代わりに取立て収める手続きをしている。


実現の可能性はほぼないが、死刑は島流しでいい、というのが実感である。もしくは罪人が選べるようにすればよい。ソクラテスのように死刑をあえて受け入れる選択もありえる。
牢名主は無くなったが、今でも拘置所内では独特の論理による格付けがなされる。例えばロリコンなど子供に関する犯罪は最も軽蔑され、強姦などの女性を狙ったものが次ぐ。罪の重さがそのまま格になるわけではないが、殺した人数や金ならより多く奪ったもの、無期懲役より死刑の方がより一目置かれるなどがありえる。つまり人間は社会的動物であるから、どこであろうが序列が発生するし、秩序は半ば勝手に生成する。
自治に任せてしまえばなによりコストがかからない。死刑も無期懲役も結構な額の金銭的心理的コストがかかる。流してしまえば後のことは知らぬ存ぜぬ。
案外オーストラリアのようにいずれは普通の国(島)になって独立でもするのかもしれない。


情状酌量というのも分かるようで難しい部分もある。理解できるかどうか共感できるかどうかが罪の重さを決める。
熊による人殺しはまったく理解も共感もできないだろう。だから問答無用で(問答できないので)射殺されるのかもしれないが、情状酌量の余地は多分にある。熊の生活圏と人間の生活圏が重なってしまったのが問題なのであるから、本来これは生け捕りにして人間と出会わない場所に島流しにでもするのが健全だ。熊に罪などあるわけがない。
このロジックが理解されるならば、人間を殺したヒトと共存できない理屈はない。理解や共感を絶すれば絶するほどそれは熊の論理に近づく。一見罪がどんどん重たくなっていくように感じるのだけれども、一方で罪の前提である人間の論理ともどんどん離れていっているのであるからして「極刑に値する」とは要するに特異点になる。そこでは罪の前提自体が崩壊し、ゆえに熊に罪などあるわけがないという自然の論理が立ち現れる。


しかし日本で死刑が支持されるのは素朴な復讐心が認められているからだろう。極刑を望む遺族は多いし、オレもやはり望むと思う。私刑が禁止されているので国家がその肩代わりをしているとも言える。復讐による人殺しが大いに理解共感を呼んで無罪になる例も外国にはある。
江戸時代に法制化されたという敵討ちは、公権力が何らかの事情によって処罰できない場合に被害者に処罰を委任することで成り立つ。返り討ちに合えばそれまでで、処罰することさえできない。この辺は銃社会アメリカの発想に近く、力がなければ自衛も復讐もできない。帯刀を許されている以上自分でなんとか解決しなければいけない。
武士の興りである鎌倉時代の法令「御成敗式目」ではむしろ敵討ちは規制されている。忠臣蔵も含まれる三大敵討ちというのがあって、どれも民衆には人気が高い(一富士二鷹三なすびもそこからきてるという説)が、見事討ち果たした者たちはいずれもあまり良い結末を迎えていない。
喧嘩両成敗という規定も有事と平事で異なっていたりして(http://homepage1.nifty.com/longivy/note/li0032.htm)明確な規定とはいえないが、何か事が起こった際に起こったこと自体を「不徳の致すところ」と表現するのはあきらかにその名残だと思われる。理非を問う前にすでにして責任が発生してしまっている。


いずれにせよ思うのは近代的価値の維持には多大なコストがかかるということだ。基本的人権はその根拠があやしいという批判以上にあまりにコストが掛かりすぎるという批判があってよいし、そういう問題があらゆるところで出てくるだろう。人間の平等意識には際限がないが、全ては予算が決めてしまうとも言える。そこでコストを削減するにあたって民営化というのが市場原理への委託だとして、もう一つ共同体原理への委託という方法論がありうる。というか町内会も企業による税の徴収にもそのニュアンスがすでにしてある。
そういう揺り戻しは多少はあるだろうけど、戻るかというとまた難しいところ。ペットの飼育数では今年初めて猫が犬を逆転しトップとなった。その大きな理由はコストが掛からないから、だと言われているけれども・・・