分類について

今ちょっと悩んでいる事がある。
それは「記事のカテゴリーをどうしていくか?」という問題についてである。
前回の記事のカテゴリーを[ひきこもりに関する話]ととりあえずしてみた。でもよく考えてみるとこれは全然分類になっていない。ここでは当面「ひきこもりに関する話」が主題になる予定なわけだから・・・その中でどういう分類をしていくのか、というのが今問われているんである。ところがこれが凄く難しい。
まず第一に分類には正解がない。どんな分類をしたって別に間違いという事はなく好きに分ければいいんである。この”好きにしろ”という要請にひきこもりは弱い。好きなようにさせとくと引き篭もってしまうわけだから・・・要するに”何もやらない”という選択になりかねない。
第二に分類は普通まとまってからやるほうがやり易い、という事だ。まだブログを始めたばかりで記事は殆どないしどういう内容になっていくかは自分でもよく分からない。書いたものがある程度たまってくればどう分類すればいいのかのヒントも見えてくるが、今のところその取っ掛かりがない。

というわけでグーグルで検索してみる事にしました。キーワードは「分類の不可能性」。出来ない事の言い訳する気満々です(笑)
で、見つかったのがここ。ちょっと引用します。

純粋に「客観的」な分類の、原理的な不可能性が、「みにくいアヒルの子の定理」によって論理的に証明されてしまっている以上、あらゆる利用者の要求を満足させるような理想的な分類法を目指すよりも、便宜的な符号、レッテル貼りと割り切って、標準分類表を、(気に入らない箇所が多少あっても、)採用するのが得策ではないか、と思うのですが。

まぁおおよそオレが理解していた感じでいいみたいです。基本的には恣意的で便宜的なものであり、よりベターなもの、役に立つものを採用すればいいわけです。まぁその便宜というのがまだ見えないのが問題なんですけど・・・それよりもここに乗っている文章の中にとても興味深いものがありました。それは池田清彦という生物学者が書いた本からの引用部分。

池田清彦『分類という思想』, p.89:
「分類に使う形質という分類基準はどんなものでも人間の認知によって選ばれたものである。だからどんな分類基準を使っても、すでにして人間が選んだ以上、それを使う分類がア・プリオリに客観的であることはない。」


池田清彦『分類という思想』, p.94:
「人間の認知パタンから独立した客観的な性質をことごとく選んで、それらを等価とみなす限り、そもそも分類という営為は成立しないのである。逆に言えば、分類することは重要な基準を選ぶこと自体なのだ。ア・プリオリに重要な基準などはない。従って分類することは世界観の表明であり、思想の構築なのである。」

上の部分は「分類してるのは人間。世界が元から分類されているのではない」という事だと思う。まぁそれは特に問題ない。注目すべきは下の文章。これは分類というものの核心部分、本質に触れているとオレは思う。特に重要なところは

>分類することは重要な基準を選ぶこと自体なのだ。
>分類することは世界観の表明であり、思想の構築なのである。

ここだ。分類というものがどれだけスゴイものを含んでいるのかがよく分かる。分類する事は自らの世界観、思想の表明になってしまうのである!お、恐ろしい・・・。オレが分類するのに悩むのも当然である。


しかし今問題なのはこのブログのカテゴリーをどうしていくかという事だ。話がちょっと大き過ぎる。
・・・そうだ。問題は大きさである。このブログのタイトル『大ブロ式』は大きい事は良い事だ、という思想に基づいている。出来るだけ大きな話をしていきたい。だからとりあえずの暫定的なカテゴリーとして、

  1. [大きい話]
  2. [中くらいの話]
  3. [どうでもいい話]

というのを考えた。これなら内容がどんなものでも分類できるし、分かりやすいじゃないか。で、記事がある程度増えたらゆっくりと「思想的に」分類すればいいんである。う〜む・・・決まった。とりあえず・・・


ありがと〜池田せんせい〜(泣)




〜注記〜
え〜この記事のカテゴリーは[どうでもいい話]になってますが、少なくとも主観的にはここでどうでもいい話をするつもりはないです。ここを単なる日記にするつもりは今のところありませんので。この記事の分類の話も実は「ひきこもりという分類」に対する疑問があったりなかったり・・・
なので[どうでもいい話]で記事を引用されても怒らないで欲しいです。ちょっと失礼にあたるかな〜と思ったんでここで謝っておきます。すんません。




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