ひきこもりは「弱者」か?

前回の記事の続き・・・
そもそもマイノリティかマジョリティか、すなわち少数か多数かというのは何らかの基準を示さなければ規定する事はできない言葉で、

この○○にはたいがいのものが入ってしまうのである。男は、日本人は、ひきこもりは、中卒は、井上和香ファンは、全てマイノリティであると言う事が可能である。(はい、全部オレの事です)つまりは、


問.(1)○○が少数になる基準を求めよ。


という意味なので、とにかく少数になる基準があれば何でもいい。もちろんその基準も一つとは限らない。元々単に数を言っているだけのあまりに中立的な言葉なので、これだけではそこに殆ど意味はない。だからこれを使う時には基準を同時に示すか、もしくは文脈や「暗黙の前提」によってもう一つ意味を付け加えたりする事になる。そこで必ずと言っていいほど前提になっているのが「弱者」なのである。だから

  • ひきこもりはマイノリティ(弱者)である。

この文章の意味するところは、


問.(2)ひきこもりが少数かつ弱者になる価値基準を求めよ。


という問いだったんですね。実は。いや普通は問われている事には気付かないでいつのまにかそこで指し示されている価値観を当たり前の事として受け入れてしまっている・・・。この辺に何か作為のようなものを感じるのはオレだけだろうか?
ちなみに(2)では単に基準と言わず「価値基準」となっているのは「強者か弱者か」というのは前々回の記事で書いた分類の本質
>分類することは重要な基準を選ぶこと自体なのだ。
>分類することは世界観の表明であり、思想の構築なのである。
というのに数の問題だけの時よりも当てはまるから。
とにかくこういう事だったんですね。で、これのどこが問題なのか。
まずそこで指し示されている価値観、世界観とは何か?
そしてそれは暗黙の前提にしてしまって本当にいいのか?
という疑問。・・・しかしこれはかなりややこしい。この世界観は(まぁ左翼的なものなわけだが)歴史的に大きな転換をしていると思われるからでそれを説明するという事は、「少数の強者」を敵にしていた者がいつのまにか「少数の弱者」の味方になったわけ、というあたりの話になりそうだが・・・いや今だって少数の強者は敵だと思っているはずで、でもそういう時はマイノリティという言葉は使わない・・・「一部の」とかいうわけで・・・難しいのでこれは後回し(笑)


もう一つの疑問は、その分け方がどの程度妥当で有効なのか?という事である。ただこれについては何度も言っているように「分類」というものには正解というものがあるわけではなく、どこまで言ってもそれは恣意的であり人為的であり偏見でありレッテル張りである、という前提がある。だから問題があるのは当たり前でそれを指摘したところでそれに替わるより有効な基軸を示さない限り根本的な批判にはならない。・・・というのを踏まえた上で言いたい事だけは言っておきます。


■マジョリティ-マイノリティという分類への疑問
ひきこもりを少数派と分類する時それに相対する多数派に「一般人」「社会人」のようなものが想定されている、というのが実はかなりおかしい。というのはこの「一般人」「社会人」を多数派とするならそれ以外の殆どの集団は少数派になってしまう。そもそも何らかの傾向を持った人達に名前をつけるというのは少数であるのが前提である。多数であれば「日本人は」とか「最近の若者は」というような全体を現す言葉になるはずであり、だから「ひきこもり」というように名前を付け分類した時点でアプリオリに少数派になるわけだ。これでは「ひきこもりはマイノリティ」という文章には殆ど意味がない。これにもし何らかの意味を持たせる為には「レベル」を合わせる必要がある。

  • 巨人ファンは多数派?少数派?

もし「巨人ファン」に対するものに「一般人」を置くとすれば巨人ファンは少数派である。日本人の中の野球ファン、その中の巨人という特定の球団のファンは間違いなく多数派ではない。しかし普通は巨人ファンは多数派と考えられている。(いや最近どうなのかはよく知らないけど)そこで前提にされているのは「特定の球団のファンの中では」というもので、こういう風にレベルを合わせているからこそそこに意味があるのである。もちろん違うレベルを設定する事もできる。例えば同じプロスポーツのサッカーファン、その中で多数派を占める特定のクラブのファン、と相対的に見る事にも意味はあるだろう。
いずれにせよレベルを合わせなければ多数か少数かという分類に意味を持たせる事はできないのだ。
だから問題は「ひきこもり」と同じレベルで見る事の出来るある傾向を持った集団(?)との対比であり、その上での少数多数でなければ意味はない、とオレは思う。
今のところオレ自身が対比している重要な存在は「オタク」である。これは斉藤環も注目しているようで流石だと思っている。(いや「斉藤環が」じゃなく「オレが」笑)他にありうるとすれば「渋谷の若者」とか「ニート」なんかもあるかもしれない。まぁとにかく「一般人」とか「社会人」とかと対比してるのは意味があるのか?という疑問。ひきこもりは一説によれば100万人いると言われているが・・・これは少数なのか?


■強者-弱者という分類への疑問
こっちの方がかなり問題だとオレは思っている。いったい誰が「弱者」などと規定したのか、「責任者出てこ〜い!」とオレは言いたい。
まず強者か弱者かなんてものは数のように数値で示せない限りなく主観的な判断である。その基準は本当はいくらでもあるはずなのに、なぜに自らを弱者と規定するような価値基準を選ばなければならないのか?
例えば食物連鎖における強者弱者というのは実は極めて恣意的な考え方に基づいている。「何をもって」という物差しが変わればその立場は容易に逆転する。
まず生物が存在する事の意味、その目的は究極的には分からないというしかない。しかしある程度のベクトル、傾向なら分かっている事もある。その一つがより長く生き残ろうというもので、要するに生き残ったものが勝ち、というベクトルである。それでいくと肉食動物は草食動物なしには生きていけない。しかし草食動物は肉食動物がいなくても生きていく事ができる。環境が悪化すればまず滅ぶのは基本的にはピラミッドの上からになるので、上の方に位置している生物ほどかなり不安定な生を生きているということができる。どちらが長く生き残るのか?こっちの基準の方がどちらかと言えば重要だったりするのでそこまで考えればライオンとシマウマどちらが強者なのか、というのは本当は簡単に言えないはずなのである。
で、改めて問いたいのはひきこもりは本当に弱者か?という疑問。ひきこもりが社会のピラミッドのどこに位置していようが、つまりはシマウマだろうがぺんぺん草だろうが、それこそペットだろうがゴキブリであろうが、「弱者」などと自らを規定するのは馬鹿げている。そうそう馬と鹿っていうのもあるな(笑)
とにかくどこに位置していたって弱者などと思う必然性はまったくない。
で、何が言いたいのか?
この弱者という規定が「ひきこもりになってしまった者」が何らかの形で主体的に生きようと模索するのを阻害しているのではないのか?という事である。例えば上山さんのように本などを書いて何らかの「活動」をし始めた時「もう当事者ではない」とか何とか文句をつけられる、あるいはある程度状態がいい、良くなった人にも向けられるこういった言説は結局は「ひきこもりは弱者でなければならない」という本末転倒な考えが引き起こしているようにオレには見える。少なくともオレはひきこもりを強者弱者なんて物差しで見る事には反対である。いやひきこもりに限らず世界をそういう基準で見る事自体が嫌いである。これはそもそもこの世界観がどういうものか、に繋がっている重要なポイントになりそうなんだが・・・


とりあえずまだ続・・・けたい。