『認めさせたい、と同時に認めさせたくない、させないという意志』

圏外からひとことのessaさんに褒められた。
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20050908#p01
リンク先でも書かれているがessaさんのhttp://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20050906#p01この記事がオレの書いたものに近いことが書かれている気がしてそれをブクマコメントでちらりと書いたところ、それが補足されてあの長文記事をリンク先まで含めてかなり丁寧に読んでもらえた。なんせessaさんの記事(というかブログ)はオレには非常にハードな内容で確信は持てなかったのだけどやはり非常に近いものがあったようだ。
これがとても興味深い内容なのだけど一先ずここではそこには触れない。
問題はそこでもう一つ取り上げてもらったまずは世界でなく自己、外でなく内という記事。
essaさんがおっしゃるようにここで書いた事はホントは言うほど簡単なことではないのだととオレも思う。
これがいかに至難であるか。
ひきこもりであるオレには分かっている。ひきこもりこそは頑固に自己を変えない、変えることができない存在だから。
そもそもその記事の元になっている養老先生の思想にオレが共鳴しているのも多分オレがその自己を変えないダメな例の典型としての「ひきこもり」であるからで、だからその記事は半分以上自分自身に向けて書いているものなんです。


で。
今ブログを書く上でちょっと難しい問題に直面している。というよりある種の居心地の悪さ、のようなものを少し前から感じていた。
ひょっとして燃え尽き症候群か?と思ったのだけどどうもちょっと違う。いや結構重なってるのかもしれないが問題は多分そこではない。
ちょっと前まで、といってもひきこもりの時間感覚は冗長なので結構前なのかもしれないけれど、まぁこのブログは読んでいる人は少なかったし評価も殆どされていなかったと思う。相当気合を入れた記事をUPしても例えばブックマークとかでは2usersとかがせいぜいだった。
ところがそういう状況で書いていた時は同時に物凄く充実もしていた。つまり評価されない、あまり読まれないという事自体が書きたい動機、強いモチベーションにもなっていたという事。中々うまく伝わらない、からこそ伝える為の努力もできていた。ということなんだと思う。
でもどうも最近状況が変わってきてる。そう感じる。
ジャーナリズムに関する記事も自分の中では今までで一番力を入れて書いたもので、これはブクマの最高記録になって欲しいな〜・・・と思ってたらその通りになってしまう。自分の中での基準と受け手の側の基準の一致。
それと何か最近凄く褒められる。essaさんもそうだけど褒めてくれたり共感してくれるコメントが多い。で、どういうわけだか批判や反論のようなものがめっきりこなくなった。いやこれは記事の方向なんかも原因なのかもしれないけど・・・
で、ともかくそうなってくると今度は何だか困ったことになるわけです。伝えたいことが伝えたい人に普通に届く、ようになると何の為に書くのか、という動機の部分が改めて問われてくる。今までと同じようなかたちでの動機が維持できない・・・。


とここまでは、何だやっぱり燃え尽き症候群じゃないか、ということでまぁ実際そうなんですけどwこれ自体は予め想定していたことでもあってたいした問題ではないといえば言える。まぁ多分誰でも通る道なのだ。
だから問題はそこじゃなくてオレがひきこもりであるというところからくる個人的な、あるいは特殊な事情の部分なんだと思う。




この辺はブログを始めた初期の頃にもちょっと書いていて問題意識としてはずっとあった。
ブロガーに明日はあるのか - ぶろしき

ブログを運営するのは殆どの人にとって仕事ではない。楽しいから、面白いからやっている、はず。だから多くの人にとっては趣味に属すると思われ、当然面白くなくなってしまえば続ける理由はない。しかしひきこもりのオレにとってはこれは趣味とは言えない。趣味とはあくまで仕事がある人のものだと思う。じゃあ何なのか?となるとよく分からないというしかない。

んでこれについてトラックバックを送って言及してくれたのが『祭りの戦士』のaraikenさん。
祭りの戦士−ブログとは?
まだ始めたばかりでトラバなんか殆どなかった時なのでトラバ自体も嬉しかったのだけど内容にも共感するものがかなりあった。芸術という立ち位置とひきこもりという立ち位置には何かちょっと近いものがある気がした。
で今改めてオレが動機の部分で引っかかっている時にまた極めて興味深い記事がUPされているのを読んだ。


祭りの戦士−TAROの訣別
内容は岡本太郎がパリで芸術家によるある種の政治的な活動をしていた事に関するものなのだけど、その中での岡本太郎の言葉に今オレの感じているものが重なった。ここでも引用させていただく。

『……だがやがて私は何ともいえぬ矛盾を感じはじめた。純粋で精神的なこれらの運動にしても、結局のところそれは「権力の意志」だ。しかし、ひたすら権力意志をつらぬこうとする彼らのあり方に、私はどうしても調整できないズレを感じるのだ。もっと人間的な存在のスジがあるのではないか。
自分の意志を他に押しつけ、実現させようと挑む。と同時に、同じ強烈さで、認めさせたくないという意志が、私には働くのだ。これは幼い頃からいつでも心の奥に感じていたことだったが、いまはっきりと自覚された。理解され、承認されるということは他の中に解消してしまうことであり、つまり私、本来の存在がなくなってしまうことだからだ。
認めさせたい、と同時に認めさせたくない、させないという意志。それが本当の人間存在の弁証法ではないのか。
私はその疑問を率直に手紙に書いて、バタイユにぶつけ、運動への訣別を告げたのだ。この手紙はバタイユを逆に感動させ、その後も互いの友情は続いた。』(『自伝抄』)

これがどういう意味なのかオレは岡本太郎について殆ど知らないので妥当かどうかは分からない。だけど現在のオレの問題意識というか感じてることを言っているような気がしたのだ。
岡本太郎はこう言っているようにオレには見える。変わりたくない、のだと。


>理解され、承認されるということは他の中に解消してしまうことであり、つまり私、本来の存在がなくなってしまうことだからだ。


これは殆ど芸術家という存在の弁証法でもあるんだろう。
岡本太郎は異端だ。岡本太郎に限らず芸術を志向する者は基本的に異端なのだと思う。何か非常に理解されづらい心性を抱えていて、それを理解してもらう、あるいは強引にさせる為の営為が芸術、なんじゃないかと思う。
そしてそこで実際に認められ承認され始めた時、常に上のような問題が浮かび上がってくるんじゃないかと思うのだ。
でこれはやはり何も芸術家に限った話でもなく人間存在の弁証法でもあって、ひきこもりだってあるいは今ブログで話題になっている「非モテ」だって同じなのかもしれない。
モテ・非モテ - おれはおまえのパパじゃない
で改めてタイトルにもした言葉。


>認めさせたい、と同時に認めさせたくない、させないという意志。


これは同時に「変わりたい、でも変わりたくない、変えないという意志」でもあるのじゃないだろうか。
あるいはひきこもりなら「動きたい、でも動きたくない、動かないという意志」だし、非モテなら「モテたい、でもモテたくない、モテないという意志」なのかもしれない。
で果たしてこれはessaさんのいう、あるいはオレも書いた自己が変わること、に対する畏れからくるもの、なのかどうか。これは否定されてしかるべき心性なのか。
岡本太郎はおそらく一方では常に変わることに対して「開かれて」もいたような気もするのだけど・・・。
とまぁ特に結論がある話ではないのだけどこういう事を今考えている。








※蛇足
araikenさんの記事で書かれているけど、その後岡本太郎が日本で参加することになった芸術運動「夜の会」の理念を読む限り岡本太郎は「モヒカン族」でもあるようだ。(なんて言ったら失礼かな・・・ってどっちに対してはかは分からんけどw)

『われわれアバンギャルド芸術家は、相互の無慈悲な対立と闘争によってクリエートする。集団の力に頼る甘い考えは毛頭ない。相互の絶対非妥協性こそわれわれの推進力となるものである。』(『夜の会』)

んでもしそうだとすると、そしてモヒカン族に対立する概念がムラ社会であるのなら「モヒカン族のルーツは縄文人である」という極めて興味深いテーマが浮かび上がってくるように思うのだけど・・・
それはここではマジどうでもいいので割愛wつーか誰かに書いて欲しい〜