「機械を丈夫にすると人が壊れる」

はてなには道徳が無い。
はてなに道徳が無いのは異常なことでも悪いことでもないが、はてなブックマークに規約が無いのは異常であるし、極めて悪い。
仮にGoogleが未来を作っているとするならば、金子勇は犯罪を作っており、西村博之は暴徒を作っている。
コメントに対するコメントとか。


真性引き篭もりによるはてブコメント問題への一連の記事。
おおよそはてブ2ちゃんねる説を主張しているのでこれについて思うところ。


まず確かに株式会社はてなのブクマの無断リンクやコメント問題への対処は放置であると思われこれは何だかな〜とは思う。それをシステム的にどうこうする以前になんらかのアナウンスがあっても良い気がする。ポーズでも建前であっても。
それすらない以上はてなには道徳がない、というのはその通りかなと思う。
しかしはてなブックマークに限らず何らかのネット上のサービスにおいて問題はすべてシステム的に解決すべき、という主張には納得できない。ブログに関連付くサービスにおいては特に。

治、即ちネットサービスにおける管理には3つの形式がある。
1つは全てを機械に任せてしまうという方法である。例えばいくつかのメッセンジャーサービスやBBS、MMOと呼ばれるネットゲームなどに置いて、特定の悪い言葉が発言不可能なのは、機械による統治、即ち機治である。


もう1つは、人による統治、即ち人治である。大手小町mixiといったものが行っているのは、これである。つまり十分な量の人を雇って片っ端から問題のあると管理側が考えるコンテンツに対し警告を出し、あるいは削除してゆくというものである。


そして最後は言うまでもなく、放置による統治、即ち放治である。新興ネット企業の管理体制は多くの場合これである。例えばseesaaBlogで問題になったスパムブログMr.Nituiteにseesaaの対応も数ヶ月に渡りこれであった。後に対処はしたものの、再び放置されている。さらにLivedoorなどは放置の象徴であるし、Yahooオークションの管理側の対応も放置、と呼んでいいだろう。また我が国で最も売れたMMOであるFFXの管理もそうであるし、amazon.co.jpの対応などもこれである。新興ネット企業はほぼ全てこれであると言ってよい。

機治と人治と放治。これにプラスするなら礼によって治める礼治。この礼がブログにおいて成立するかどうかが重要ではないかと。
はてなブックマークにおけるコメント欄が2ちゃんねると違う点があるとすればそれがブログと紐付けられているかどうかの一点。ブログと紐付けられていればそれは純粋な匿名とはいえず何らかの立ち位置が示された個が識別可能。コテハンといいうるものがあるかどうかが重要。
現状特に紐付けする義務があるわけではないのだけどソーシャルブックマーク自体がブログを書いていない人には面白さが分からないという性質を持っている為、多くの人がブログと紐付けしている。であるのなら何らかの問題があった時自分の行為を振り返らざるをえない。自分が普段主張していたりすることとの一貫性も考慮せざるをえない。
はてなブックマークと無断リンク問題 - EKKEN♂
例えばこういうこと。コメント欄に追加されているような色々な疑義が提出されそれに答えるというかたち。はてながまともだな〜と思うのはこういう風にちゃんとユーザーが問題を指摘してそれに答える人がいて勝手にコンセンサスが形成されうるところかなと。
礼というのは自由の為、であるがゆえに全体的利益の為に成立するのだと考える。もし礼が成立せず同じ問題が起こり続けるのだとしたらそれはシステム的に制限せざるをえない。が一旦システムで制限されるとその選択があることさえ意識できなくなる。これは環境管理の話に繋がるのだろうけどどんどん無意識の制限が加わっていく方向。自由がなくなっていることにさえ気付かない不自由。
これに否という為には礼の成立する余地のあることについては安易にシステムによらず徹底的に考慮しておくべきじゃないかと考える。特にその余地が大きいのが2ちゃんでもSNSでもなくブログにおいてだと思うので安易なシステム的制限には反対。でもってはてブをきちんとブログと紐付けせずに使っているのにも反対。それは自分の行為を振り返る気も主張の一貫性を保つ気も更々ない、といっているに等しい。無責任なコメントを垂れ流すのを防ぐこともできないし礼も成立しない。2ちゃんと同じ。仮にブックマーカーブラックリストを作るなら「ブログが不明なブックマーカーのリスト」になるかもしれないしそれは必要かなと思う。




という以上の話を一言でいえばブログは人を成長させるか、という話だと思う。問題が起こるのは常にシステムのせいである、と例えばする。この方向でどんどんシステムを構築していくとどうなるか。というよりそれは何を意味しているのか。それは人が本来担うべき部分を機械に担わせている、ということなんだと思う。要するに人が成長する必要がなくなるということ。成長するのはシステムのみ。
バカに合わせてシステムを作る、ならいいがバカのままでも問題はない、なら問題はある。
「機械を丈夫にすると人が壊れる」
とは養老先生の言葉。そういう話だと思った。


んで無断リンクについてなのだけど「リンクする自由は法的に保障されてる」とか「禁止することはできない」なんてところを争点にすべきではないと個人的には思う。だってそうではないですか。日常会話において「あなたのやっていることはおかしい」と指摘された時「いや法的には問題ない」なんてこと言うだろうか?普通言わない。言うとすれば殆ど開き直りの言葉でしかない。問題になってるのは人としてどうか、であるし禁止することができないということと「あなた」がやるかどうかは関係がない。
かつて議論になったらしい「儀礼的無関心」のような話からすると随分後退した話になってるような気がする。
もちろん無断リンク禁止をいう人の主張も人としてどうか、が問われるべきだとは思うのだけど。