パクられなければオリジナルではない

http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_94e4.html
http://www.virtual-pop.com/tearoom/archives/000108.html
http://fukudablog.blog6.fc2.com/blog-entry-33.html


オリジナリティに関する議論は興味深い。これは深いとこでは近代とか個人とか社会の重要な価値観に繋がってるのだと思うしそこにある幻想というか「嘘」が引っ掛かるからだと思う。

オリジナル 2 [original]


(名)
(1)(複製・模写・翻訳などに対して)原型となるもとのもの。原作。原物。
(2)オリジナル-シナリオの略。
(形動)
独創的なさま。
「―な発想」

これがgoo辞書の定義。「オリジナリティ」だと

オリジナリティー 4 [originality]


独創性。創意。
「―に富む作品」

と個性という意味合いしかなくなるとこが面白いが、本来は「原型」や「源泉」という方が本質。ここではあえてこっちの意味のみで書いてみる。・・・というかタイトルで結論はもう書いてる。

  • パクられなければ原型たる資格はない。オリジナルであることを主張できない。

ということ。本来ならばパクられることは作り手にとって喜びであったはず。その辺がどうも捻じ曲がっているような気がしてしっくりこない。そういう感覚が多くの人にあるのではないかと思う。
でひとつはっきりしていることは日本の文化において作り手は個性という意味でのオリジナリティなど主張していなかったということ。そういう文化的土壌がこの違和感のそれこそ「源泉」であるのじゃないかと考えられること。
日本で重要だったのは流派であって〜流、〜派、〜家などの継承。弟子は師の技術を徹底的に真似ること模倣することが求められ、そこでは個性には消極的意味しか与えられていない。つまり「真似ようとしてもどうしても真似られない部分=個性」であったということ。
あるいは歌舞伎などにおいては名前が継承される。名前は個性を表す最も重要な要素だがそれが継承されるということはやはり個性などに積極的意味を見出していない証拠である。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50163210.html

それではなぜ、我々は「継続性」よりも「創造性」を評価するのか?あるいは「継続性の過多」を「模倣」として唾棄するのか?私は二つの理由があると考えている。

一つは、遺伝子の時代から変わらない真理である、「継続可能な創造」というのが稀であるという事実。「創造的」な変化の多くは「単なる破壊」であり、理解不能の代物だ。こうしたものは遺伝子の世界では自然淘汰によって排除され、意伝子の世界では理解不能によって排除される。そのふるいをくぐり抜けたものこそ貴重で、そして貴重さゆえ重宝される。

これは養老先生の言葉でもあるが『真に独創的なものは定義によりそれを理解する人がいない。こういった独創を行っている人が精神病院にはいる』わけで「継続可能な創造」というのが重要なポイントなのだと思う。


でちょっと話は変わるのだけど上のリンク先では生命や遺伝子などに絡めて模倣と創造について考察していてこれを読みつつ考えたこと。
生物の進化の過程とは個性がどんどん強くなっていくベクトルであると考えられる。原始的な生物は細胞分裂によって増えるのでそこに個性など存在せず、あるのは種のあいだの違い。そしてその種の違い、枝分かれが起こる前の生物がその原型。オリジナル。
で雌雄の発生によって種の中での違いができる。雄と雌の違い、親と子の違い、兄弟のあいだの違い。すなわち二つとして同じもののない「個性」の成立。(一卵性双生児は例外として)
更には群れの発生、ヒエラルキーによる生き方の違い。これは何も高等生物に限らず例えば蟻なんかは女王蟻、働き蟻、軍隊蟻、オス蟻、とそれぞれの生のあり方はまったく違う。ので高等かどうかはともかく進化的に新しいということであるのだろうけどヒトにおいては社会の中のどういう位置づけかによっても国家によっても相当違う。遺伝子の違いのみならず生き方の違いも大きくなっている。これをおおよその生物の進化の方向と考えていいと思う。
ところが。
その個と個のあいだの距離、違いが最も大きいと考えられるヒトの作る「モノ」はむしろ同じモノを作るという方向に進化している。グーデンベルグ活版印刷の発明によって同じモノがいくらでもコピーできるようになった。産業革命というのも規格によって同じモノを「大量生産」「大量消費」できるようになったことによる。あるいは農業だって品種によって同じモノをたくさん作る技術。
現在の最先端の技術というのもクローンやデジタルデータのようにまったく同じモノが作れるようになっているわけでそういう方向が大きな流れとしてあるように見える。
要するに技術においては同じモノを作るというのは高級なのである。進化的に新しいのである。というように生物の進化の方向と技術の進化の方向は一見矛盾している。
・・・と思ったのだけどこれはよく考えると矛盾というより補完なのかもしれない。ヒトにおいて個と個のあいだの距離は果てしなく遠い。からこそそれを繋ぐために全体性を補う為に同一のモノが外部に必要なのだろうと。言語だって要するにこの距離の遠さが生み出したものだといえば言える。同一のモノでなければ意味は通じない。




と以上の話は別に結論のある話ではないのだけど。言いたいことは独創性とかオリジナリティを主張することの胡散臭さ、だと思う。
オリジナル(原型)=パクられたモノ
オリジナリティ(独創)=パクッたモノ(になきゃいけないもの)
という使い分けへの胡散臭さ。生物的に見れば個性はヒトにおいて最も大きく全てのヒトにあるのは間違いない。だからそこにあるのは良い個性と悪い個性、認められる独創と認められない独創があるだけじゃないかと。どうもその辺をごまかしているような気がする。
価値はだからそんなところにはないのだと思う。「継続可能な創造」すなわちパクられてこその価値があるのみ。そういう意味ではインスパイアという言葉の方が正しいのだ。それは独創でなく継承を、元ネタがオリジナルであることを主張しているのだから。独創を主張するクリエイターよりはるかにまともだと思う。
ってことでもちろんこの記事もリンク先に、あるいは養老先生にインスパイアされて作られているのですw