柔らかい世界と堅い世界

実名などというものは何の抑止力にもならないし、それがハンドルネームともなれば無論のことである。


これに対してがっぷり四つのツッコミが「真性」引き篭もりからきた。ので答えてみる。



被害者側が加害者の人格あるいはハンドルネームを知っているというだけで全ての暴力が止むというユートピアな思想にはまったくもって驚かされる。

もう、まったくもって、たかだがハンドルネームだなにだがわかったくらいで世の中の全てのパワーハラスメントが存在しなくなると考えられるようなおてんとさまには白旗降参。

まずこれは徹底的に勘違いしている。オレは礼治によって全ての暴力が止むとも全てのパワーハラスメントが存在しなくなるとも言ってない。いや言ってないどころか


>バカに合わせてシステムを作る、ならいいがバカのままでも問題はない、なら問題はある。


とむしろ問題が無くなることが問題だ、という話だったりする。要するに問題は契機であってそれについてあーだこーだ考えたり振り返ったり反省したり議論したりで何らかのコンセンサスなり礼なり、あるいは内的に倫理なりが出来ていった方が良い、という話。システムによって問題が起こらなくなることはこの契機を奪うことになるのでそれに反対。問題は起こるのが自然であるしそれによって人が成長する方が重要ではないかという。
これのどこがユートピアか。その目的なり着地点なり目指しているところは当たり前の世界でしかない。
理想主義的というならそれは目的でなく手段の方であるはず。礼治というのは理想的な方法論のことなわけで、それにしても


>機治と人治と放治。これにプラスするなら礼によって治める礼治。
>これに否という為には礼の成立する余地のあることについては安易にシステムによらず徹底的に考慮しておくべきじゃないかと


とあくまで三つのものにプラスアルファとして、でもって余地があることについては、というカッコ付きで書いてるわけで礼治のみでいいって言ってるわけでもない。
・・・とこんだけバランス取って書いてしまうオレからすると真性引き篭もりの方が極端なユートピア思想であるように感じる。
全ての暴力を無くそうと思ってるのも全てのパワーハラスメントが存在しなくなるのがいいと思ってるのもオレではなく真性引き篭もりの方だ。そしてこれは手段ではなく目的において理想主義的である。

即ち、ありとあらゆる諸問題への取り得る選択肢は唯一、超権力による統治のみである。他の一切、あるいは合切といったものは何の効果も無い。

即ち、声なき弱者の声を聞く方法は無い。
それらに対する唯一の対処こそが、絶対なる統治である。

逆に手段においては極めて現実的だ。機治や人治はこちらで書かれているように確かに非常に効果的な方法なんだと思う。更に「ありとあらゆる諸問題への取り得る選択肢」「声なき弱者の声を聞く方法」としての超権力による絶対なる統治。とはまさしく問題が起こらない為には最も効果の高い方法。
だがそれなら国家という超権力による絶対的な統治、徹底的な検閲をしている国が思い当たるのだがあれが理想的な世界だということになってしまう。実際問題そこは日本に比べればひょっとすると見た目においてはデオドラントな、一見すると問題の少ない世界になってるかもしれないわけだが・・・。


もう一つ。もっと重要なのは全ての暴力の無い世界、全てのパワーハラスメントの存在しないそのユートピアにはおそらく真性引き篭もりの存在する余地はないってこと。「糞ブログで毒電波垂れ流す」ようなやつももちろんいない。ユートピアとは「どこにもない場所」という意味らしいがそもそもその世界に自分が存在していないというのは大きな矛盾だと思う。



ブックマーカーのコメントからブログを見てそれがどのような人物であるかを見るのは、引き篭もりだのNEETだのというどうしようもないくらいの暇人か、コメンテーター側の、コメンテーターについての情報を持つ関係者だけだ。それは信者と表現してもよいくらいの狭い領域の馴れ合い関係者である。即ち、第三者は知り得ない領域の話であり、存在しないに等しいのである。

これはその通りだと思うけどブログと紐付けしていることの意義はそこじゃない。
ある人はブクマコメントの問題を指摘されてそれにブログ上で答えた。
ある人はブクマコメントの問題を指摘されブログの更新を停止した。
例えばこういうこと。被害者が加害者を特定するためでも第三者が裁くのでなくてもこういうことは普通にある。紐付けてさえいればブログとブクマで別人格、とはならずそこで一貫性なり統一的人格なりを求めようとする傾向。それによって誰に言われなくても何らかの規定はできていくんでないの?という話。
で何度もいうけども何も礼治のみによって秩序が成立するという話ではない。こういった部分で2ちゃんの匿名の世界よりは礼の成立する余地が多分にあるだろうということ。




2005-11-15 - 行乞記 - 断片部
んで以上を踏まえてこちらの記事にも答えたいのですけど、礼とか倫理とかいってもそれを強要とか抑圧という話にしてしまうのはちょっと違うなと。何かそれを堅苦しい世界のイメージで捉えてるような気がするのだけどそれはまったく逆だと思う。


>礼というのは自由の為、であるがゆえに全体的利益の為に成立するのだと考える


と書いてるように礼の根拠は自由の為というところにおいてるわけで、システムによらないことで最大限自由度を確保しようと。その為の礼でしかないので目指しているのは最も柔らかい世界。そういうイメージ。礼はその効果が大きくない、いつでもやぶれるとこにこそその意義がある。逆にシステム的制限は堅い。ハッカーでもなければそれをやぶることはできないしそもそも選択肢があることさえ気付かないかもしれない。
要するに弱くて柔らかい世界と強くて堅い世界があってどっちがいいのかという。いやどっちもあるのだけど出来る限り柔らかくしたいなと。そういう話なのだと思ってる。