何の為のブログ?

404 Blog Not Found:カエルの子を変えるには
http://d.hatena.ne.jp/partygirl/20060304


話は全然食い違う。でも何とかもっと別な軸で語りたい。

とはいえ、それを理解し墨守するのが、司法関係者という「プロ」だけでは、法治国家とはとても言えまい。実際、今回の事件に際して「市民の暴力」を行政(特に地方行政)はむしろ後押しし、立法は無視しているのを司法が辛うじて食い止めているというのが私の印象である。

これはちっとも変な話ではない。もう何度か引用してる『圏外からのひとこと』の世間、社会、権力、そしてネットから。

日本では「社会」と「世間」がつるんで意地悪をしてくる、だから息苦しさが大変なものになって、救いがないわけです。

flapjackさんはイギリスの「世間」的なものとして、こういう例を上げていますが、そういう「世間」から見放された人でも、「社会」は最低限の人権を保証してくれると思います。日本では、そういう人の人権は保証されないで実質的に抹殺され、しかもそのことの責任を「社会」も「世間」も取らないでいいように、両者の間で絶妙なパス回しが行なわれています。

『「市民の暴力」を行政(特に地方行政)はむしろ後押し』というのはおそらくこういうことなんだと思う。
つまり「松本智津夫被告の次男」は実質において「世間」から見放されている。一旦そう見なされた人間には日本では行き場がない、ということ。
では法というものがそれに対してどれほどの力になるのだろうか。

実際、オウム真理教元信者に対する「市民たち」による不法差別は、すべて差別側の敗訴になっている。

「まだ罪を犯してもいないものを罰する事はない」というのは、法の大原則ではないか。

訴えれば「勝つ」のだろうし、「松本智津夫被告の次男」には確かに何一つ「罪」はないわけで当然他の人たちと同じだけの「権利」が法によって保障されている。
でも俺はこんな説明ではちっとも「納得」しない。「松本智津夫被告の次男」であるという特別性、つまりもし今目の前に彼が現れたとしたら間違いなく俺が向けるであろう「特別な視線」。その時そのことを知らなかったとしても後で知った時には相当な衝撃を受けるだろう。普通の人と同じようにはきっと見ない。認識しない。
法は誰にでも平等に施行されるべきものだから、ゆえに人の個人性、個別の事情はあまり考慮されない。がそもそも「社会」と「世間」から見放される、ということ自体が大概特殊な事情によるのである。それを法が救うというのは無理のある話なんじゃないのか。僕らが確かに彼を特別な目で見るだろうという当たり前さの前では。


だから「罪はない」とか「同等の権利がある」という正論に俺はちっとも説得力を感じない。それが事態を多少なりとも良くするとも思えない。
じゃあどう考えればいいのか。一つ納得のできそうな見方がある。それは

  • 彼は大きな業(ごう)を背負っている

という見なしだ。もしこう説明されるなら少なくとも俺は納得できる。彼の特別性とそれにどう対処すればいいのか、そういう事を考える上で極めて的確な表現であるように感じる。
でも多分誰もそういう認識はしない。というよりおそらく言えない。なぜならこれはタブーに触れていると思われるから。仏教系の「カルト宗教」の問題に対して「業(ごう)」なんていう仏教的な見なしを与えることなんておそらくタブーなのだ。
それでもあえて言いたい。この認識がもっとも妥当なのじゃないかということについて。




「社会」からも「世間」からも見放された存在にはかつてはちゃんと受け皿があった。いわゆる「駆け込み寺」というやつだ。社会のルールからも世間のルールからもはずれた者の最後の行き場として寺は機能していた。それは単に治外法権的な場としてだけでなくそういう人の存在を認める「論理」とセットだったんだろうと思う。その一つが例えば「業(ごう)」による説明なんじゃないだろうか。特に本人の努力ではどうしようもないような事情に対しての、社会(法)や世間とはまったく別な論理による説明。それが救いになりえていた。
だけど現在はもうそんなものはどこにもない。仏教はこういったことに何の解答も示せない。色々事情はあるんだろうけど
サブカルチャー化する仏教 - umeten's blog
こちらでumetenさんが書いているような現状なんだろうと思う。
でもそういう人の受け皿になりそうな「場」が可能性としてならあると俺は思ってる。どこかって「ここ」だ。ネットの世界だ。更に言うとブログの世界。少なくとも俺はそういう可能性を見ているし、世間2.0はそこまで想定して考えてる。
だからホントはこういう問題には誰に問題があるかとか法がどうかとかももちろん重要だろうけどあえてブログでやるならもっと意義のある話もできるはずだと思う。それは

  • ネットは現代の駆け込み寺になりうるのか?

という視点。ネットが現実の社会とはまた別なリアル、別な世間になるとしてもそこが「世間から見放された者」の存在が許される世界でなければ何の意義もない。現状そうなっているのかというならちっともなっていないだろうことは
昆虫化するポストポストモダン - 量産型ブログ
これを見れば分かる。「世間から見放された者」に対するこれが今のネット世間の対し方だ。本来ネットには世間の周縁というかどちらかというとともすれば世間からはずれそうな人が多くいるんだと思ってるけど、そういう人が世間から完全に外れた者にむしろ一番厳しい。それは要するに世間から外れてしまうことへの恐れ、がそうさせているわけで結局「世間こそがリアル」だと誰もが信じて疑っていないことが原因なのだと思ってる。
だから問われるべきなのはもし彼のような人がネットに例えばブログをやるとしたら「私」はそれを受け入れるのか、認められるのかということだ。そしてその為には現実の世間とはまったく別な「論理」が必要なのだということ。
404 Blog Not Found:What do those who can't do?

Those who don't, blog.
[行わぬ者は....]

もしそういう視点で語るのならブログすることは「行為」になりうる、と俺は思うのだけど・・・


Those who do, blog.