僭越ながら「業(ごう)」について

前回のエントリに対して陳子から業を説明したまえという恐るべき難題を突きつけられて唸った。いや仏教についてちっとも詳しいわけでないしあくまで日本語化しているそれ、例えば自業自得という言葉などで何となくうっすら認識しているそれについても、改めて説明しろといわれると凄く難しい。
でも業なんて持ち出してしまった以上、何とか思うところを色々書いてみます。ちなみにタイトルはここから。




誰を恨むべきなのか - Living, Loving, Thinking, Again

麻原の次男、今年中学受験ということは、地下鉄サリン事件などのときには殆ど物心がついていなかったということだ。言ってしまえば、戦争中に赤ん坊だった日本人が突然胸ぐらを掴まれて、〈戦争責任〉を取らされるようなものだ*2。いったい誰を恨めばいいのか。愚かな父親か*3。それとも、自らを差別する世間の者どもか。どちらもだろう。この子どもが父親や世間に報復する権利というのは当然ながら認めなければならないだろう。私たちができることといえば、その復讐心が危険な仕方で暴発しないようにと神仏に祈ることくらいだ。

要するにこれをいかに乗り越えるかという話なんだと思う。danさんのところの最初のエントリで引用されていた文章なんだけど改めて読むとここにはまさに業的な世界観に至る萌芽があるように感じる。
でこれについて書く前にまず自分のこと、俺が「ひきこもり」についてどう捉えてるかというのを書きたい。というのはどうやら俺は自分がひきこもりであることを「業」のようなものとして捉えてる気がするから。
ひきこもりというのは誰も好き好んでなったわけでなく、何だかわけの分からない力で、追い詰められていくようにしていつのまにかそうなってしまうものという感覚なんだけども、ひきこもりも親だったり学校だったり世間や社会のようなものに強い恨みのような感情を抱いている人が多い。俺もまあそんなようなものだった。
で俺はこの憎しみのような感情は極めて正当な感情なのだと思っている。特に若いうちであれば。なぜなら実際問題、現に今ある自分の状況に至る経緯はまさに親や学校などからの強い影響のその結果であり、更にひきこもりというものについてはかつては、そして日本以外にはない社会問題でもある以上、その原因に「現代の日本社会」というものを置いても決して間違いとは言えないということ。だからひきこもりである自分を陰に陽に責められればそれに対して「お前のせいだろう」という事は正当な反論なのだと思う。ある一面においては。
ところが一方、同じ親に同じように育てられてもひきこもりにならない人はならない、同じ社会なり学校なりで育っても同様なわけで、つまり「自分が」そうなったことの因には確かに「私が私であったから」というのもあるのだ。間違いなく。
とここで問題はややこしくなる。じゃあ「私が私であること」は選択可能なものだったのかどうかという。明らかにそこには「意識的な私」ではどうしようもないコントロール不能な領域があって、そこでもしその領域を結局両親がセックスしてその元に生まれて育ったのだというところに求めると話はループすることになってしまう。いや実際このループを永遠回り続けてる人は多い。し俺も確かにそこで回り続けていたような感じがある。
でまあ色々あってなんだけどともかくある時期を境に俺は発想を転換した。それがどうも今から考えると「業」のようなものとして捉えることにしたんだなという。つまりそれは誰のせいでもない。親のせいでも社会のせいでもそして俺自身のせいでもないという。とにかく何だか分からない未知の領域。それは殆どマイナスのものしかもたらさないんだけどもそれをそういうものとして引き受けてしまう。でそれに徹底的に沿っていこうと。
同時にその時何か凄い大きなものを諦めた。例えば「普通の幸せ」みたいなもの。こういうのはもう諦める。
前に猫さんとこで知った中島義道という哲学者の人が「対話」について言った文章

天才は天才としての体験を、凡人は凡人としての体験を、勝者は勝者としての体験を、敗者は敗者としての体験をまるごと引きずって、しかもこれらをダシにしてあるいは武器にして感情的に訴えるのではなく、あくまでも普遍的な真理を目指して論理的に精緻に語ることである。

というのに凄く共感したんだけども、この『敗者は敗者としての体験をまるごと引きずって、しかもこれらをダシにしてあるいは武器にして』という発想。これは対話についてでなく生きる上での戦略のようなものとしても考えられるんじゃないかと思う。のだけど、この武器にするという発想はある壁を乗り越えないと決して出てこないものなんじゃないかと思ってる。つまり敗者はひょっとすると勝者でありえたかもしれない可能性、を諦めて敗者である自分を一旦完全に引き受けなければならないということ。その過程を経て初めて「敗者であることを武器にする」という発想がでてくるのだという。「ひきこもり」ももしあの時あーしていればこうはならなかったかもしれない、と思っているうちはやっぱり武器にするという発想なんてでてこない。といってそれを諦めたからといってただちにそれが武器になるわけではもちろんないのだけど、だけど一つの戦略としてそういう行き方もありうるだろうと。それ自体そのままではマイナスのものでしかないものから何らかのプラスの価値になりうるものを見出していくという方向性。
多分そういう戦略をとることにしたわけでそういうものとして俺は「ひきこもり」というものを捉えて今に至っている。





近代的「個性」と仏教的「業」

以上の話は一応俺が「業」というものをどう認識しているかという話でもあったんだけど「自業自得」という言葉が表すようにそれは明らかに不幸な結果を及ぼすものとして考えられている。

じごうじとく じごふ― 0 【自業自得】

〔仏〕 自分のおこないの結果を自分が受けること。一般には悪い報いを受けることにいう。
「―だからやむを得まい」

自業自得(じごうじとく)の意味・使い方 - 四字熟語一覧 - goo辞書

このことは近代的な「個性」という発想と合わせて考えると対照的で興味深い。
例えば「松本智津夫被告の次男」であること、それに特別な意味付けが与えられることは「社会的偏見」として自明の前提として考えられている。そんなもの当たり前だといえばそうなのかもしれないけど、もしそれは「個性」だと主張する人がいたらそれにどう反論するのだろうか。というか明確に反論できるだろうか。
「個性」をもし親とは関係の無い、ということはほかの社会的要因とも関係の無い個そのものに自立して成立しているもの、とするなら果たしてそこに何か残るものがあるか。養老先生はそれはらっきょの皮むきだ、という。自分にあるどんな性質にしろ属性にしろその因を求めていけば殆ど自分以外の何かによっていることが見出されるだけ。つまり自分と世界における全ての要因は繋がっているわけだから何かを「個性」と主張することはそのどこかに恣意的に切れ目を入れることなのだと思う。別にそれが恣意的なのは構わないんだけど問題はそれがどういう基準によっているのかということ。
「個性」は最大限尊重されるべきものでそれを伸ばすのが正しい方向だと近代は考えている。極めてポジティブなプラスのイメージとして語られる。そこでもし個性があることによって何らかのマイナスの不幸な結果を及ぼした時には大概それは社会に何らかの問題があるからだ、と翻訳される。社会的偏見のあるせいである、と。
これがそのまま何をもって個性とするか、という基準の重要な軸にもなっているのだと思う。プラスの結果を導くものは個性として尊重し、マイナスの結果を導いた場合は社会的偏見があるとして打破しければならない。とこの二つの間での綱引きが行われることになる。
だけど個性というものが常にプラスになるというのはどう考えたっておかしい。個性というものがあると仮定して、それは定義上他の誰も持っていない何か、であるわけでということはつまりそれを私以外の誰も理解できないということでもある。誰にも理解されえない(もしくはされにくい)という事自体が既にして不幸を相当程度に含んでいる。理解され、共有されるということが喜びであるのなら。
とここまでくれば仏教的な「業」が殆ど不幸な結果しか及ぼさない因として考えられている理由がはっきりしてくる。俺には近代的個性の説明よりは業のほうがしっくりくるんだけど・・・とりあえず


近代的個性=ポジティブな個性
仏教的な業=ネガティブな個性


と位置づけられるんじゃないかと考えた。ある性質を個性と取るか社会的偏見と取るかという二者択一の世界にもう一つ「業」という説明が場合によっては前向きな方向性を生み出しうるのではないか、という。ネガティブでマイナスの意味づけしか与えられていない「それ」に徹底的に沿って武器にまで高めてプラスの価値を見出していく、というような方向性。
改めて最初に引用した文章。
誰を恨むべきなのか - Living, Loving, Thinking, Again

麻原の次男、今年中学受験ということは、地下鉄サリン事件などのときには殆ど物心がついていなかったということだ。言ってしまえば、戦争中に赤ん坊だった日本人が突然胸ぐらを掴まれて、〈戦争責任〉を取らされるようなものだ*2。いったい誰を恨めばいいのか。愚かな父親か*3。それとも、自らを差別する世間の者どもか。どちらもだろう。この子どもが父親や世間に報復する権利というのは当然ながら認めなければならないだろう。私たちができることといえば、その復讐心が危険な仕方で暴発しないようにと神仏に祈ることくらいだ。

ひょっとすると仏教はこういうものを乗り越える為の方法論を提示しているのかもしれないと思う。でそういった見なしを与え後押しする“世界”が別にあってもいいんじゃないだろうか、と。例えばネットの世界に。




とまあ一先ずこういうものとして考えてます。俺の勝手な解釈なので本来の仏教の「業(ごう)」については
ウィキペディア - 業
この辺を参照。
ということで後は陳子が適当にキーワード化お願いします。
ついでに関連性は謎だけどrir6にもトラックバック!