匿名実名話再び・「私」について

備忘録ことのはインフォーマル - 一連の疑惑について
備忘録ことのはインフォーマル - 今の気持ち
この件は最近考えていたことと微妙に繋がっているというのもあって色々思うところあり。すでに色々書かれているのでその辺も踏まえて。以下まとめっぽいもの。

まず俺とmatsunagaさんとの関わり。トラックバックは2,3度送った記憶があるけどやり取りはこのエントリのコメント欄が初めて。これだけ、なんだけどこのネタがmatsunagaさんによってモヒカン族キーワード登録されて、それまでブクマでは2usersの壁と戦っていた当ブログのエントリが初めて10usersになり、それ以降10ぐらいはすぐブクマされるようなブログになったという、そういう経緯がある。で改めて思い出したのは俺がブログという言葉を知ってそれが何なのか調べている時に一番参考になったのが『絵文録ことのは』によるブログ及びトラックバックの説明記事。色々他のも読んだのだけどそれがまったくの初心者である俺には一番分かりやすくて、当時誰だかに説明する時にそこにリンクして紹介した記憶がある。
というわけであんまり関係ないといえばないんだけど振り返ってみると個人史的には何かうっすらと縁のようなものがあった気がする。まあ当時すでにブログの世界では有名だったというのもあるんだけど、とりあえず以上が大体俺の立ち位置で以下本題。




「私」とは誰か

何だか哲学的な問いのようだけどこれが今回一番重要なポイントだと思った。匿名実名、ネット世界と現実世界、それらの意味を考える上でこの事についてどういう共通の認識があるのか。もしくはないのかという。
まず基本になる前提として考えられそうなのは、

  • HN(ハンドルネーム)によるネット上の「私」とはあくまでネット上にのみ存在している人格を指す

というもの。当ブログにおいて俺が使っている「俺」とか「オレ」とかいう一人称、「俺はこう思う」という時それが指し示しているのはあくまでネット上における「santaro_y」というHNの人格であって、画面の向こう側に現実に存在するそして実名を伴う「私」ではないという見方。
これは例えば『一人で複数の顔を持つ事ができるからこそ表現できることがあり、演じられる役があるというインターネットの面白さ』と考えている人なら普通に納得できるんじゃないかと思う。
もしこの前提で語るならmatsunagaさんが『備忘録ことのはインフォーマル』において「matsunaga」名義で書いたエントリはどう判断されるのだろうか。そこでの「私」は「matsunaga」もしくは「松永英明」というHNをしか指し示さない、ということだ。ということはどういうことか。そこで「信仰心は現在ありません」「団体に関わる宗教的な行動は何もしていません。また、団体に関わる宗教的思考も働いていません。」というのは当たり前なのである。そもそも「松永英明」というHNは最初から、そしておそらくは今でもかつての「河上イチロー」とも「実名」とも紐付けないという想定の上で作りあげられた人格であるのだから。
この点『一人で複数の顔を持つ事ができるからこそ表現できることがあり、演じられる役があるというインターネットの面白さ』と思っている人はよくよく考えておかなければならないことだと思う。もし確かに現実に存在しているたった一人の「私」の考えていること、をネットで主張しなければならなくなった時、複数の人格をまったく紐付けずに使っているとややこしい問題になる。いったいどの人格の主張が「本心」なのかという。実名を使っている人ならこういう問題は起こりえないのだけど。


で次に今回の件で難しいのはかつての「河上イチロー」という人格をどう位置付けるのかだと思う。
http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/20060315#1142387397

たとえば、河上イチローが滝本弁護士に激しい敵意を抱いていたのは事実だ。しかし、今、そんな感情は全く起こらない。

もちろん、肩書きによって判断するなとは言っているが、河上時代と比べて少し範囲を広げて言っている。

要するに、いつまでも過去のデータで判断しようとすると、俺は何歩かわからんが先に行ってるぜ、ということ。変わらないのは納豆嫌いということくらいかな

どうやらmatsunagaさん本人はそれは過去のある時点までの「私」であり今の「私」とは違うもの、個人史の時間軸の中でくっきりと分かれているものと考えられているようだ。そして実際にもどうやらある時点を境に「河上イチロー」名義では文章を書かなくなって、それ以降に「松永英明」という人格は発生したという経緯である模様。
がこれははっきりと間違いであると俺は思う。そしてこう問いたい。

と。もっと言うと「河上イチロー」という存在を殺すことなんてできるのだろうかと。
例えばmatsunagaさんがまた「河上イチロー」名義で文章を書いたとしてそれで何か問題あるだろうか? それが変なことだとはちっとも思わない。もし本人がそんなことはありえないと考えていたとしても「本人の考え」なんて変わりうる、と自らおっしゃっている。あるいはまた何らかのかたちで信仰心が復活しないとどうしていえるのだろうか。その時また「河上イチロー」というHNを使うかもしれないことは当然想定されてしかるべきではないか。
要するに本人がどう考えていようがHNによる人格は今現在も確かに存在しているということだ。これにはもう一つここがネット上であるがゆえの問題もある。ここではちょっと検索すれば「河上イチロー」の書いた文章をいくらでも読むことはできる。そこに何らかの「境目」は存在しない。特に事情を知らずにそういったテキストを読む人はたくさんいる。「河上イチロー」は今だって何らかの主張をしているのだしその影響を受ける人が今この瞬間にも当然のように存在している、はず。


なぜ、現実では「人を殺してはいけない」とされ、フィクションでもそのルールは概ね準用されるのに、現実世界の人間がフィクション世界の人間を死なせることはよいのでしょうか?
前にid:michiakiさんがしてた人工検索はてなでの質問。これに対する俺の回答。

2に近いですが、フィクションの世界では同じものが何度でも再生産が可能です。
例えばあるキャラクターが死んだ、としても何らかのかたちで生き返らせるということが作者には可能です。
それだけでなくそれは何度も繰り返し様々な人に読まれます。読まれてる間は生きているわけです。例えその物語の中で死んだのだとしても読まれるたびに生き返るので本質的に殺すことができません。

果たしてネット上における存在を「殺す」ことなんてできるのだろうか?




以上の2点、『HNによるネット上の「私」とはあくまでネット上にのみ存在している人格を指す(特に様々な人格を紐付けせずに使っていれば)』と『ネット上における存在は基本的に殺せない』という二つの前提を踏まえた上で改めて考えてみる。
matsunagaさんは色々事情があってのことであるにしろ、少なくとも二つの人格を紐付けせずに使っていた。「松永英明」はかつてのHNとも実名とも紐付けしないものとして作られた名前であり人格。一方かつての「河上イチロー」は本人自ら実名と紐付けして使っていたという経緯があるようだ。
で今問題になっているのはネット上に存在している「松永英明」の考えではなく現実に確かに存在している実名と歴史性を伴ったその人、の考えなのだと思う。それを言うべきかどうかはともかくとして、もしそれを主張したいのであればそれは「河上イチロー」名義でされなければならない、のだと俺は思うのだ。なぜなら信仰心があったのは「松永英明」ではなく「河上イチロー」の方であるのだから。しかも本人の意向によってそれは実名と紐付けされた人格でもある。そこでの「私」ならまず間違いなく現実に存在するその人を指し示しているのだと考えることができる。
が現状そうでない以上、そこでの「私」は「松永英明」以外の何者も指し示していない。そう俺は解釈する。


http://d.hatena.ne.jp/plummet/20060315/p1

氏が記述した文章はその簡潔さも相まって、そうした「かつて属していた組織の責任」から、あまりにも容易に、すなわち安易に、氏が自由になったことを感じさせる。しかも、理知的に。

 氏は『現代表の拡大志向が社会的にきわめて危険であると考えております。そして、こういうゴタゴタに関わりたくなくなった』ことを脱会の理由のひとつとして挙げている。具体的な内容については分からないが、この書き方にも怖れを感じる。

 『関わりたくなくなった』という表現は、そう「願望」したことを表す言い回しである。氏はその願望を「脱会」により、軽やかに果たしたわけだ。

 「オウム真理教」というラベルが一般的にもたらす「もの」――その言葉から引き起こされる感情――と比較して、松永氏のこの思考と行動の軽やかさはどうだ。組織の責任から、世間が抱く心情から、氏の思考と行動は自由だ。あまりにも自由だ。

 その自由さに俺は恐怖する。

こちらのエントリにはほぼ同感。こういった近代的で合理的な思考や人間観に激しく違和感があって最近業とかについて書いてもいたのだけど、しかしこの件についてはそこがネットであったがゆえの問題もあるように思う。





「私」とは何か

しかしこういうことが問われるべきなのかどうか、というなら本来なら問われるのはおかしいと思ってる。俺は現実世界とネット世界は基本的には別な世界だと思っているし、そこできちんとハンドルネームによる使い分けをしているなら実名が引きずっている経歴なりなんなりを暴露するのは不当であるしそれに答える必要も本来ない。
けど今回の件についてはちょっと特殊な事情がある。やはり民主党によるブロガー懇談会への参加というのがネックになっているのだと感じる。
http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/20060313#1142201603

民主党自民党の懇談会については、完全にブロガーとしての立場ならびに思考で参加させていただきました。私自身、ここまで問題視されることであるという認識はなく、その認識の甘さについては、ご迷惑をおかけした各方面にお詫びせねばなりません。しかし、私は単に「ちょっと違ったところでおもしろい話が聞けて、それを皆さんにお伝えする」というだけの気持ちで参加したものであり、それ以上でもそれ以下でもなかったという事実については申し添えねばなりません。もちろん、そのように認識が甘かったということについては、批判を受けねばならないと考えています。

やはりそれは単なるオフ会とか何とかカンファレンスとは全然レベルの違う場であったのだと思う。そこは直接的な「現実社会への権力への意思」とでもいうべきものがはっきりとある場。あるいはそう見なされて当然の場だ。そこへ参加すれば場合によっては実名(とそれが引きずっている様々なもの)を問われることもありうる、そういう覚悟なくして行くべきではないのだと。特に特殊な事情があって実名を問われることを普通の人以上に恐れていたのならなおさらだろう。
で。
この件は結局マクロで見ればネットの現実世界への影響力の増大、そしてネットのリアル化(その実世間化)という文脈上にあるのだと思ってる。『きっこの日記』を書いている人の正体が取り沙汰されるのもそれが政治や経済に直接的な影響を与えるまでになってしまったからである。
二つの世界が急激に接近しつつある、そういう状況において似たような問題はこれからも色々起こるんだと思う。そこではっきりさせたいのはその二つの世界の「ルール」がいかに違うか、ということ。

  • 「私」とは誰か

ネットにおいてそれが指し示す対象は常に同一であるとは限らない。もし虚構性が強ければそもそも現実世界に存在すらしていないかもしれない。
これをきっちり掴んでいなければならないと思うが、しかしこれはネットならでは、ネットというものの特性ゆえではないのだと考える。つまりはそもそも人の意識というものが本来的にそういった性質を持っているから、なのではないかと。
例えばこのエントリに書いた内容だけが「俺の考え」なのかというと決してそうではない。この件について俺はここに書いた以上の様々な思考や思いがあって、しかも場合によってそれぞれは矛盾しており批判したい気持ちと擁護したい気持ちなどが同時に存在している。で最終的に何を書くのか(あるいは書かないか)は状況や条件などによる重み付けをした上で最も重要だと思った事柄についてのみ書いて「表現」することになる。・・・わけだけどもし「俺の考え」というものを正確にそのまま表せと言われるなら、いくつかの人格や立ち位置を作りだして場合によって矛盾するそれらのものを別々に表現した方が正確かもしれないということだ。
現にそういう使い方がネットでは普通に行われてもいるけどそれは人の意識というものがそういう構造をしているからだ、と説明できる。要するにその方が「自然」なのであってネットは人の意識の自然な振る舞いがそのまま表現される場、という風に考えられる。


そしてこのことは同時に現実社会の中で人がたった一つの実名を持った一つの人格として振舞わなければならない、そのことの「不自然さ」を逆に浮かび上がらせる。実名を伴った一つの人格としての「私」という意識はある虚構性というか約束事によって成立しているのだと思う。本来は上で言ったように「私」は色々なことを考えているはずだけどそのままでは社会の中で生きていけない。何らかの「私の考え」を選択、表明しなければならない。昨日言ったことと今日言うことがまったく違ってしまうのではその人は信頼されない。当然そこでは「私の考え」の一貫性も求められる。
これらは社会的要請に従った約束事の世界であって元々そういうものであったわけではない。というのは人にとっての自然、すなわち「子供」について考えるとはっきりする。
一貫した主張を持つ子供、なんて気持ち悪い。さっき言ってたことと今言うことが違う。平気で嘘をつく。駄々をこねる。生意気。
こういった子供の属性。「子供とは酔っ払いである」と誰かが言ってたけど要するに約束事の成立していない自然状態の人の意識とはそういうものなんである。(匿名の2ちゃんねるの世界はまさに最も自然状態に近く子供の属性が強く顕れている)
しかしそれでは社会は成立しない。大人になるということは約束事の虚構性を受け入れることだ。一貫して同一性を持った「私」を構築しなければならないのだという。
もっとも子供の世界にもルールはある。社会とはいえなくても世界はある。大人の世界とはまた別なルールの支配している世界が。


ということでつまり現実世界とネット世界の違い、とは大人の世界と子供の世界の違いであると考えれば分かりやすい。子供が何か重大な問題を起こせば大人が責任を取らねばならない。というのはHNによっていても何か大きな問題を起こせば場合によって現実の実名を持ったその人が責任を取らねばならないことに同じ。そしてネットの世界にいる人が現実世界に直接的に影響を及ぼそうと考えるならそれはもう子供ではなく大人である。それならきっちり大人の世界のルールに従わなくてはならない。一貫していて同一性を持った「私」を担保する実名の世界のルールに。
そして改めて信仰心を持った「河上イチロー」とそれを持たない「松永英明」が同時に存在したとしてもまったく不思議ではないのだと思うのだがどうだろうか。少なくともそれがネットの世界の中に留まるならば。しかし現実世界のルールではそれは認められないというそういうことだ。
そして俺の個人的見解としても
http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/20060313#1142201603

現在、団体に関わる宗教的な行動は何もしていません。また、団体に関わる宗教的思考も働いていません。完全に経済モードになっています。

この「経済モード」という表現は語るに落ちてるなーと思ってる。



ということで

以上の話はあくまで前提部分に関わる話だと思うんだけどこういうことについて共通の認識はあるのだろうか。もしないなら話はすれ違わざるをえないと思う。
でホントは実名によらずとも現実に存在する「私」を指し示すことはできるとも思っているんだけどその辺はまた別エントリにて。このブログで俺が「俺は」と書くときその対象はHNの向こう側まで指し示している、そういうつもりで書いていたりするんだけど・・・一先ず以上。






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