食神

http://d.hatena.ne.jp/toled/20071202/1196589952
2ちゃんねる\(^o^)/オワタ テラ豚丼祭りと「ひろゆき天皇」


テラ豚丼祭り。ちょっと見て萎える話だなと思って詳しく追わなかったけど、改めて動画とか見て一つ思い当たったんだけども。


思い出した。吉野家を巡る反応がおかしかったのは今回が初めてじゃないってこと。
BSEで一時休止した時の反応もそういえばかなり変だった。過剰だった。ちょっと再開した時もおかしなことがニュースになってた。牛丼がないと言われて暴行とかなんとか、確かそんなことがあった。
その流れの中に今回のがあると考えると一般論で捉えるのはちょっと違うような。つまりこれは吉野家に特殊な問題を多分に含むんではないだろうか。あの時はなんとなくメディアが煽ったせいという結論に落ち着いたような気がするけどどうもそういうことでもないようだ。
なぜ特に吉野家においてこれほどヒステリックな反応が巻き起こるか。
それは「吉野家に神が宿っているからだ」という説を考えたので以下。


一升飯という言葉もあるぐらい、大昔の日本人は米ばっかり食っていた。おかずなんて殆どなくて文字通り米が主食、米によってその命は支えられていた。更には大多数の人がその生産を仕事としていたこともあり、結果「お米の一粒一粒には仏さまが宿る」ことになった。この経緯は素直に納得できるものだと思う。
キン肉マンの言によれば「早いの、うまいの、安いの」吉野屋である。特別な日に食べるもんではない。ある種の人たちにとって常食になっている。ジャンクフードに分類されたりして軽く見られたりするが「常食である」ことの意味はけっこう重い。それによって自分の命が支えられていると見なされる食べ物、にはいつ神が宿っても不思議じゃないだろう。
もっとも同じように安くて常食にしている人がたくさんいるであろうマックになぜ神が宿らないかがすぐに疑問になるんだけど、それも今回の件ではっきりした。かつて牛丼、今豚丼で似たような反応があることからして神の宿る場所は「上の具」にはないのである。やはりパン食、肉食の歴史は浅くてまだ聖域とまでなる資格を有していないようで、そこはどうやら今も変わらず「米」にあるようだ。
・・・と今偶然、松井秀喜の出てる吉野家のCMを見たんだけど、その中でも「飯がすすむ」というのを謳い文句にしてたから間違いない。丼物における具はあくまで米を美味しく頂くためのスパイス、という位置づけ以上ではないのだ。
ともかくこの問題にピンと来ない人は、吉野家を常食にしてない食生活を送っている幸せを感じても良い。
しかし食ってない人間にはよく分からない。
結局触らぬ神に祟りなしということだろか。




話はずれるが、吉野家に限らずフランチャイズ展開してるような店だとどこにでもあって味もまったく同じ、という状況になる。
これはつまり「同じ釜の飯を食っている」こととほぼ同義になるんじゃないだろうか。この言葉の意味は身体レベルの強い結びつきが生まれるというような意味なんだと思うが、そもそもこういう事が問題化するのは文句を付ける人間がいることにあるんじゃなく、それがいっぱい集まって連帯することにある。大概それはネットの特質、2ちゃんねるの特質ということで落ち着いてるけどこういうのも意外と無視できない要素かもしれない。
コミュニティの覇者となるのは2ちゃんねるでもmixiでもなく吉野家であるという大穴。