未来を保守主義

ジョジョの奇妙な冒険 パクリ糾弾テンプレまとめ
最近これを見つけて色々考えてた。
一言でいってその主張は「野暮」というしかないものなんだけど、悔しいのはコンテンツとしては面白いものだってこと。ジョジョファンであれば、ネタ元を知ることには色々な発見があってかなり楽しい。けどここではそのすべてが、作品を貶めるという意図によって提示されてるので素直に楽しめない。
惜しい。実にもったいない話。元々はファンによる元ネタ探しのサイトがあって、それがこういった「意図」に利用されてしまったのを知って閉鎖、という流れもあるらしく激しく萎える。
ジョジョ二部と寄生獣が似てるってことになぜか最近気づいて、それについて書きたいなーと思ってた矢先だったのでなおさら。こういう状況じゃ素直に書けねっていう。
痛いニュース(ノ∀`) : 【ネット・著作権】 「(動画・音楽の)ダウンロードは違法」の方向で固まる…ニコニコ動画やYoutubeなどへの影響は? - ライブドアブログ
ちょうどこういう話もあり。


著作権などにまつわる話はネットではしょっちゅう話題になるしちょこちょこ見てはいるけど難しすぎてあんまり理解はできない。そもそもの知的財産権なる概念の抽象度が高すぎて、具体例に落とし込むと必ずどこかで矛盾がでてきてしまうという、そこに原因があるようだ。
色々考えはしたけどややこしすぎるので、以下そこでとりあえず出た結論部分のみ書くことにする。



過剰消費

現在の人間社会は、天然資源の「過剰な消費」の上に成り立っている。石油の枯渇が予測されてからもうだいぶ経つと思うけど、特に消費が減ったという話は聞かない。それどころか最近中国が始まってしまった?影響で予測はむしろ早まってしまっているという。
これはもう確信犯であるとする他ない。僕らは自覚的に天然エネルギーの過剰消費時代を生きている。
ところで過剰な部分はどこからきているのか問われれば、それは未来(の人)から奪っているとしか考えられない。本来未来に生きる人が使うはずだった天然の資源を、僕らが、何の権利があってか知らないが使っている、という状況だ。(もちろん人間以外の生物のこともホントはあるけど、ここでは一先ず置いとく)


もちろんこういった流れに対する不満もあって、それを押しとどめようとする活動も色々行われているし、その影響もどんどん大きくなっていっている印象はある。が、それが果たして未来の人の幸せに繋がっているかと言えばかなりあやしいと見てる。
一度上がった生活レベルを意識的に、意図的に落とすことはまず無理だ。個人でもそうだし国家ならなおさら。結局無い袖は振れないということで、不可抗力的に落ちざるを得なくなればどうしようもないんだけど、不満は溜まる。幸福度や満足度も当然落ちるんだろう。
しかし資源、エネルギーの消費が減っても生活レベルを落とさない簡単な方法はあって、それは頭数を減らすこと。単純な論理として「使えるエネルギーの総量」と「人間の数」の比を一定に保てば生活レベルは落ちない。その方法論の一つとして一番ありがちなのは戦争だろう。他にも少子化傾向の促進とかでもできそうだけど、落ちた不満のエネルギーを同時に解消昇華できるものとして、戦争有利は動かないと思われる。
仮にそうなったとして、当然これが幸せと言えるものであるはずがない。


例えば「持続可能な社会」というスローガンはまったく正論であると思うし、というかそうする他ないようには思うのだけど、説得力や納得感に欠ける。親のこさえた借金を返すので一生を費やす子供、というようなイメージとどうしてもダブってしまうからだ。積極的な動機付けにはなりにくい。特にこれを「親の側」が言っていれば、ふざけるなという話になるだろうこと受け合い。



人工資源

もっと積極的な動機付けになるものはないのか。
別な言い方をするなら、僕らの社会はただ無闇に資源を浪費してるだけなんだろうか。
といえば多分そうではない。
天然資源は人を媒介にして人工物に変換されている。
エジプトのピラミッドを作るのにどれだけの森を消費したかしらないが、とにかく大量に消費しただろうと言われている。それはひょっとすると未来の人間が使うはずだった資源を浪費したのかもしれないが、とにかくピラミッドという人工物は残った。それは歴史的資料なり観光資源なりとして、今の人にもとりあえず恩恵は与えている。ひょっとすると自分たちが使うはずの資源を奪われたかもしれないその土地に住む人、もピラミッドにおれなりの価値を感じている。
こういうことがありうる。
で、今問題としたいのは、現在これだけの大量なエネルギーを消費しなければ作れなかった人工物とは何か、ということ。もちろん未来の人間の資源に成りえるものという前提の上で。


まぁ色々ありうると思うけど、一番面白そうなのは芸術娯楽方面の作品であると思う。
巨額の資金が投入される映画、最近だとゲームなんかも高まる一方だけど、こういったものは本来人間が生きていく上で無くても全然困らないもの。こんなものに巨額の資金を投入できるのは圧倒的な社会の基盤の磐石さ、繁栄があればこそだ。無くても困らないものでどれだけのお金が動き、どれだけの規模の市場が形成されているか。こういった状況はエネルギーの過剰な消費が無くては成立しない。つまり未来の資源まで食わなければできないこと、の一つとしていい思う。
そしてこういった作品群の興味深い性質は、その大部分がコンピューター上に、0と1の数列の「データ」として翻訳可能であるということ。未来の人間にも半永久的に使える人工資源として。



結論

現在を「私」とするなら過去は「親(先祖)」で未来は「子供(子孫)」といえる。
「持続可能な社会」とは未来の、すなわち本来子供の側の言い分ではないのか。これに対して親の側の言い分はないのだろうか。最小限度の資源で生活して、親の借金を返していかなければならないかもしれない子供、すなわち未来に対して言うことは?
できたんじゃない思う。ネットはまさに格好の言い分を用意してくれた、ように見える。
なのにそれが全然聞こえてこない。
変わりに松本零士氏のようなジイさんが「孫のために著作権を延長してくれ」なんて話してるのが聞こえてくるという状況。
少なくともここまで書いたような切り取り方、視点でみると、著作権の延長だとかダウンロードの違法化だとかはかなり情けない話に見えてしまうのだった。もちろん色々な見方がありうるけども、オレが出した結論というのはホントはこの見方が一番重要で「重い」のではないかということ。
幸福度なんてものほどあやふやなものもなくて、超先進国である現在の日本に生まれたって不幸だと感じる人はいくらでもいるし、親が良かれと思ってやったことが子供にとって不幸である、なんてこともありふれている。未来がどうなるかも結局誰にもわからないのだし、資源の問題、エネルギーの問題も新たな技術や方法論で解決したりするかもしれない。
でもそういうことではなくて。
幸福度に関わる本当の資源と言えるのは、親が子供の幸福を願ってどれだけの試行錯誤をしたかという、その形跡のうちにあるんじゃないということ。
で「持続可能な社会」に象徴されるような社会への変化、その過渡期に今があるとするならば、そこで少なくとも人工資源ぐらいは自由に使えるよう環境やインフラを整備すること、が今まさに日本のような国に生きている人間にとっての歴史的使命というか義務なんじゃないかという、そういうことだ。
せめて一人ぐらいいてもいいんじゃないかと思う。こういうことを主張するジイさんがいても。
これはジイさんが言ってこそ最大限の重み付けがされる、そういう主張であると思うわけであり。



もうどうでもいいっちゃいいんだけど

ジョジョ第二部の中で、柱の男「サンタナ」がナチスドイツ軍に一斉掃射を食らって、その弾丸を吸い込んで打ち返す、というシーンがあって。これが『寄生獣』の中で五体寄生の「後藤」が自衛隊に同じく一斉掃射を食らったのを弾き返す、という場面があってこれと似てる。弾き返す前に体の中で弾丸がぶつかり合う音が聞こえてくる、という演出も確か双方にあったような。(ちょいおぼろげ)
よく考えれば「究極生物」と「後藤」の造形自体がすごく近い。どっちも好きな作品なのになぜか最近までこれに気づかなかった。テーマとか作風が違いすぎるからだろか。
とりあえず強い影響を与えてる(この場合ジョジョの方が古いんだろうけど)か、同じ元ネタを持ってるかのどっちかじゃないかなー・・・とこれだけのことを言うのに長い前置きを書かねばならない今の状況はめんどくさ過ぎる。めんどくさいのはオレの性格であるか。