実は他人の配慮によってなりたっていたことに気付くのがいや

http://d.hatena.ne.jp/kosonetu/20060402/1143990801

2ch等のネット上の匿名のコミュニケーションを病的に嫌悪する人達というのは、こういう今までの自分の正しいと思っていたことが、実は他人の配慮によってなりたっていたことに気付くのがいやなのだと思う

これはよく感じる。確かに痛い。文字通りの意味で痛い。
というのは匿名を嫌う人だけがそうなわけでないから。「実は他人の配慮によってなりたっていたことに気付く」のは誰もがいやなんだという。
みんなが自己に幻想を持ってる。だから年賀状やお歳暮は必要で、そういう幻想への配慮が文化というものなのだ、というような話をどこかで読んだ。年賀状などが多少廃れたといっても、宛名に〜様が変わるわけでもない。おまえはいったい何様かって実際何様と思っているんです。
あるいは「クリエイターは2ちゃんねるを見てはいけない」ってやつ。
前にたけしが漫才やる前にソデで「おれは面白い。天才だ」ってその場でぐるぐる回りながら自己暗示掛けてた、という話を聞いたことがあるけど、この箴言は間違いなく正しいことだと思う。
こういう幻想の重要性について。


イメージとしてはこんな感じ。
私にとって私は主人公で王様であるという認識と、世界にとって私は取るに足らないゴミのような存在であるという二つの認識があって、前者が優勢だとそこは間違ってるけど気持ちのいい世界。後者が優勢だと正しいけど不快な(あるいは生きがいのない)世界。そしてそこから当然の帰結として世界が正しくあればあるほど私が、人間が存在する意義が失われていくというジレンマが成立する。
http://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2007/10/post_550.html
例えばこのエントリは「技術の進歩が医者に良心を仮定、期待するような状況を失わせた」という話だけど極端にいうなら必要なくなってるのは良心ってより医者であり人間だという話として読むこともできる。技術がさらに進歩して診断から治療まで機械が自動的に行うような世界が想定できるならば。


「実は他人の配慮によってなりたっていたことに気付くのがいや」に話を戻すと、これが深いなーと感じるのは日本語の基本的前提に触れているからではないかと思うのだった。日本語では上下関係の位置取りをある程度決めないと何も語れない。
ネットだ、匿名だ、ブログだって言ってもそれで上下関係を無視して自由に語れるかっていうとどうもそういうわけでもない。ある程度自由にはもちろんなるけど、基本的なとこは変わらないというかすごく重たい部分が残る感じ。
ネット使う前に日本語使ってるわけなのでそのルールまでは無視できない、ってのは当たり前といえば当たり前なんだけど。