お天道様が許さなくてもこの俺様は許す

義務とか権利の設定について - REV's blog

我々が、「彼女に落ち度があった」と話すことは、世論の水準を変化させると思う。

 青信号でクルマに跳ねられて、「信号無視の車を想定して左右を見ていないお前も悪い」と言われる世の中はちょっと困る。



 青信号で跳ねられて入院したひとに、「青信号でも左右をみなきゃ」とは話さない。それと、我々が、近縁者に「ジャングルは地獄なので、青信号でも左右をみましょうね」と話すことは矛盾しないと思う。

 もちろん、ある被害者がその言葉を聞きつけて、「あなた方が近縁者に青信号での注意を呼びかけることは、間接的な私への非難である」などということがあれば、それは、我々には仕方がないこと、としかいいようが無い。

このエントリを読んで近いことをおれも思った。どっちの立場にも説得力はあって二つの立場はそれほど矛盾しないんじゃないかと。
ちょっと欠けてるような気がしたのは、裁判になれば「被害者の落ち度」は当然焦点になるということについての話がないことだろか。加害者側の弁護士はセカンドレイプだと後ろ指差されかねない事を仕事としてやらねばならない。そして被害者はそういう状況が分かりきっているので安易に裁判も起こせず泣き寝入りするケースが多々あるらしいということ。この状況には確かに安易に解けないひどい矛盾があって、それが背景として見えてしまっている。ので最終的には誰かを悪人にして済む問題とはとても思えないのだった。
だからオレが説得力を感じてるのは文意ではなく、おそらく動機付けのほう。あーいう文章を「書きたくなる気持ち」に対してなんだけどもその辺について。


「私刑」という言葉がある。公的なルールに拠らない裁き、というような意味だけどその精神は「お天道様が許してもこの俺様は許さねー!」という言葉に表されてると思う。
ところでこの言葉の対義語・反対語というのはあるだろうか。ここで想定してるのは公刑?のような方向じゃなく「お天道様が許さなくてもこの俺様は許す!」という精神によってなされる行為一般を意味する言葉なんだけども・・・ちょっと思いつかない。
例えば「被害者に落ち度がある」という立場を取ってブログなどに書く行為は広い意味での「私刑」に含まれると認識してる。裁判という公的なジャッジの手続きに含まれているものを勝手にジャッジにして、おそらく当事者が読めば傷付くだろうことを分かった上であえて書く。そこに「お天道様が許してもこの俺様は許さねー!」あるいは「俺様は許さないけどお天道様にもできれば許して欲しくない」というような気持ちがあるとする。
でこういうのを批判したくなる気持ちとその行為は、私刑とちょうど真逆のものとして説明できるんじゃないだろか。被害者への同情から私的に許すことで被害の分を多少なりとも補填してあげたい、するべしというような気持ち。

青信号で跳ねられて入院したひとに、「青信号でも左右をみなきゃ」とは話さない。それと、我々が、近縁者に「ジャングルは地獄なので、青信号でも左右をみましょうね」と話すことは矛盾しないと思う。

そういった感情の流れがこの辺にうっすらと見て取れる。





「私刑の反対語」を隙間語に推してみる

申し訳ないぐらいに話は変わります。
ラオスーが隙間語研究会というのをtwitter上で展開されていたのを今日知る。
http://nodederu.ame-zaiku.com/
twitterしてないけど面白そうだったので一日これについて考えてた。要するに日本語にない言葉を探そうってことなんだけど、中々具体的な例が思いつかない。思いつかない理由、言い訳ならいくらでも思いつくんだけど、どうやらラオスー達も思いつかなくて悩んでるご様子。
ということでこの「お天道様が許さなくてもこの俺様は許す」というような動機付けによってなされる行為、私刑の反対語としてのそれは日本語にないような気がするのでこれを隙間語の具体例として推してみます。
といってもここがまさに難点の一つだと思うけど「日本語にない」ということは日本語をほぼすべて把握していない限り言えない、おれが知らないだけで案外あっさり見つかっちゃうかもということで、その場合は「対義語反対語というアプローチ」を隙間語を探すための方法として。


ともかくまずは「お天道様が許さなくてもこの俺様は許す」を表すようないい言葉があるのかどうか。疑問。