信仰と衝動

チベットを支持したい。
こういう問題にたいして関心を持たない、ダンフール紛争とかいまだに何が問題かさえ知らない人間であるけども、チベット問題は無視できない。興味を強く刺激される。
こういうことにかけては流石2ちゃんねる、すでに色々な試みがあって例えば
胡錦濤来日迄に日本中をチベット旗だらけにするOFF5
などバランスが取れていていい感じ。(こっちがwiki
http://blog.goo.ne.jp/kanataylfc/e/485e7f89d4594e462fbaa904109fce86
他にもこの辺りで(勝手に)転載されて有名になった業田良家のマンガ『慈悲と修羅』を(勝手に)英訳して色んなとこに流そうとか。
今こうしてネットがあるわけだから支持したきゃ各々考え、好きなようにやれば良いわけだ。たったワンクリックで外国に辿り着ける世界で、個人でできることの選択肢は多い。
だからまぁこうしてブログにも書いたりするのだけど、今回改めて色々読んで考えてみて一つの結論を得た。政治的な話とかここにはあまり書かないようにしたいと思ってたけど、しかしこれが単に政治の問題であるかそもそも疑わしい。




チベット的癒しの話: 極東ブログ
finalvent氏のこのエントリが変なとこをつついてる。この中で紹介されているダライ・ラマの討論の文章

ダニエル・ゴールマン それは、先ほどおっしゃったように、苦しみを精神修行の機会と考えるからですか。拷問されながら精神修行をするという?
ダライ・ラマ ええ、そうです。

特にここにはっきり表されていると思うけど、ここでダライ・ラマが言っていることというのはあれと同じなのじゃないか? さんざネットで揶揄されたあの「なあに、かえって免疫力がつく」と言っていることが。
単なる一ジャーナリスト、一メディアの言葉ではない。チベットの宗教的指導者でかつ政治的な最高権力者でもあるはずの人間の言葉だ。その人物が自国の民が拷問とかされている状況の中で「なあに、かえって修行になる」と言っているのではないかこれは。日本の首相、というより戦時中の天皇が言っているようなものと考えるのが一番近いように思う。
いったいこれをどう受け止めればいいのか。


今回この問題に絡めて、普段人権人権言ってる人たちが黙ってるのはおかしいという意見がある。業田良家のマンガをのせている上のブログも書いていて、まぁなぜ黙らざるをえないかぐらい百も承知であえて言ってるんだろうけど、おれだっておかしいとは思う。
が少なくともこのチベット問題に絡めてそういう揶揄をするのはどうやら間違っている。だってダライ・ラマこそはもっとも極端なサヨクと似たような認識を持っている人物ではないのか。非武装でもって敵が責めてくれば降伏し話し合いでなんでも解決できると信じるサヨクを批判し笑えるなら、同じロジックでダライ・ラマを批判し笑えなけばいけない。そんな指導者を仰いでいるから、そんな理想主義的なことを言っているから独立は保てないのだ、と。


彼の独立は志向してないとか、五輪は開催して欲しいとかいう言葉をどうしても僕等は「政治的に」読んでしまう。本音では独立したいがいえないのであると。台湾の政治家による「二つの中国」とか「一辺一国」みたいな熾烈な言葉の戦いがそこにあるのではないかと。
がそういう受け止め方はどうもちょっと違うようなのだ。そういう政治的な配慮が全くないわけではもちろんないだろうけど、これはかなりな程度「そのまま」受け取っていい言葉な気がする。
おれの見るところ彼がホントに守ろうとしているのは国ではなく人でもなく信仰だ。だから彼にとっての敗北とは政治的配慮をして仏教的理念を裏切ることにあって、そこからはずれる発言だけはしない。たとえそれが「政治的に」間違っていたとしても。




業田良家のマンガも、これを踏まえて改めて読むとちょっと違ったものが見えてくる。業田良家は同情や中国への怒りのようなものであれを描いているわけではなさそうだ。『自虐の詩』を読んでいるのでそんな単純な話ではないとは思っていたけど、ようやくちょっと分かった気がする。
http://blog.goo.ne.jp/kanataylfc/e/485e7f89d4594e462fbaa904109fce86
拷問には耐ええた主人公は、中国人に犯されできた妻の子供を「愛せない」という理由によって自ら命を絶つ。
なぜ死なねばならないんだろうか。
それは仏教的理念に反することになってしまうからだ。
彼は拷問した相手を哀れな人といって許すことができるぐらい敬虔な仏教徒だけども、その子供だけは愛することが、許すことができなかった。
そこで彼は転んだ。いやそうでなく自分の命を捨ててもそれだけは、信仰だけは守った。
これはつまり殉教者の姿なのだ。
業田良家は明らかに宗教的な側面の方に強く共鳴して描いているんだと思う。仏教的理念の方に。


山本七平いわく「殉教者のいない宗教はない」らしいが、それならこれは本物の宗教である。仏教は宗教とはちょっと違うと言われたりもするが、チベットにおけるそれは現に殉教者を出す今も生きている本気の宗教。であるがゆえにそこには当然のように強い毒を秘めてもいる。
子供を愛せなくても当然、それは十分同情できるし何も死ぬことはない。仏教的理念なんて捨ててしまえれば、あるいはそんなものなければ死なずに済んだかもしれない。命こそが至上の価値だと考えるならそういう見方もできる。
あるいはチベットの独立を支持しサヨクを笑う人は、内容ではなくその「覚悟の無さ」を批判してるんだろうか。もし本気でサヨクが主張するのならそれを支持するつもりなのか。
おれは日本人のサヨク的心情というのは仏教由来のものなのだと思ってる。現実の仏教界がその心情をすくい取れないからイデオロギーのように見えるだけで、吉本隆明親鸞について書いたり聖人のように扱われているのも、極端なサヨクの立場とダライ・ラマの立場が近いように見えるのもおそらくそのせいだ。
見る影もなくなってるその由来となっているものが、今目の前にまさに生きている姿で日本人の前に現われている、そこでのとまどい。






慈悲と修羅』では最後に、チベット人が中国人に犯されてのち生まれた赤ん坊を示して「せめて仏様 あなただけはあの子にお慈悲を・・・」という祈りを残して終わる。
これはすでにリアルなことかもしれない。暴動を起こした若者の中に「あの子」がいないとは限らない。
ダライ・ラマは指示してるわけがないとして、暴動は仏教的理念からすればやはり違うんだろう。軍事制圧されてからもう50年以上経って、信仰も薄まっていても不思議じゃない。それを認めることは中国による文化侵略(の成功)を認めることになりかねないが、じゃあ改めてまたあの若者達にダライ・ラマをきちんと信仰させることがチベットの文化を守ることなのかっていうとそれもどうなのか。だってあれだぜ。ダライ・ラマって死ぬと輪廻転生して縁もゆかりもないようなとこに生まれ変わってそれが次の指導者になる、ってとこから始まる話なのだぜ。


もし仮に。いや仮の話はホントはいけないがそれでももし仮に例えば。
大きくなった「あの子」がなんであんなジジイのいう寝言を聞かなきゃいかんのか、と憤っていたのだとしたら。
誰の言葉に耳を傾けるべきなんだろう。