岡田斗司夫問題


『オタクはすでに死んでいる』関連で感情的なものを含む反発が、ネットに多く書かれていた。岡田斗司夫に天才を認めていて、ここでも文章を引用して色々書いてきたオレとしても何か言いたくなったんだけど、本を読む気にはならず。
今だ読んでないけど似たような距離感を持った人による共感できる文章があったのでこれをもとにちょっと思うところ。


「オタクはすでに死んでいる」/岡田斗司夫 - 空中キャンプ


一応元になってる「オタク・イズ・デッド」がかつて話題になった時にネットで結構文章を読んだのである程度の話の内容は分かっているつもりだけど、この話にはやはりちょっと素直に聞けない部分はあると思う。例えば

かつてのオタクはまさに、文化的なアイデンティティを外壁を作って守って全員が維持していた。みんな勉強熱心だった。SFファンなら、SF小説を千冊読んでようやく一人前。そうしてそれぞれが厳しい鍛錬を積み、SF道を邁進していく。だからこそ、連帯感や誇らしさがでる。民族としての絆が生まれる。くわえて世間の冷たい目もあった。変態よばわりされ、たくさんのオタク批判にさらされながら、じっと耐えてきたという歴史もある。そんなつらい道を共に歩む者どうしに、絆が生まれないはずがない。お互い、がんばろうじゃないか。彼らは被差別の対象であり、また内部では求道的な側面もあった。だからこそオタクはひとつの民族たりえた。

オタクから求道的な側面が失われ一般教養がなくなり(誰も見なくなり)各々好きなものを好きなように楽しむようになった現状、に対してここでは世間から差別されなくなったからというように説明している。
ところで次の文章は10年以上前に出た岡田斗司夫の処女作『ぼくたちの洗脳社会』を受けてなされたインタビューの中での本人のもの。

「情報が流通すればするほど、解釈が加えられていないものは受けつけなくなってしまうんです。たとえば、若い人は読書をしませんよね。東大生だって感動的なまでに読まない(笑)。それは彼らが、生の状態では書物を咀嚼できないからなんです。ちょうど我々が、木材を見ても加工方法を思いつかないのに似ています。完成品を示され、穴のあけかたや、切りかたを説明されないと何もできないのと同じように、彼らには、読書ガイドが必要なんです」

http://netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/single/SYOHYOU.html

「読書」とされているところを「アニメ」とかに置き換えてもあまり違和感ないと思う。かつて求道的に本が読まれ一般教養が成立していた時代(人)があった。それが失われたのは情報(の解釈)が多く流通する情報化社会による必然である、と当時は説明していたわけだ。
で今どうなっているかというと
http://d.hatena.ne.jp/Monar/20080511/1210441267
元ネタ(木材)を見ないでその解釈(穴のあけかたや、切りかた)の方を見て育ったきたネット世代、という話が岡田斗司夫への反論として語られることになってしまっている状況。オレがここで『オタクはすでに死んでいる』を読まずにその解釈の方をもとに書いているのだってこの文脈の中にある話だと思うんだけども、それはともかくとして。
このねじれはいったいどういうことなのか。もちろん説明の仕方、視点や切り口はいくらあっても構わないけど、結果が同じならそれはとっくの昔に分かってたことなんだから今になってそんなに悲しむというのは変だ。かつて歴史的必然である!ぐらいの勢いで自信満々に得意満面に語っていた姿とのこの落差はなんなのだろう。





この落差、ズレは今にして思うと最初からすでにあった。
岡田斗司夫は2冊目の本として出した『オタク学入門』において、ジャンル横断的な知識を持つという極めて求道的なオタクを、新たなメディア環境への適応として生まれたニュータイプ、として提示した。
が、よく考えてみるとこれはおかしな話なのだ。
『ぼくたちの洗脳社会』で予測した未来社会、そしてそこに住む人たちの行動原理とこのオタク像は相容れない。

○洗脳社会での「自分」
 自分自身に関する捉え方も、そういった複数の価値観を合わせ持つものの総体として把握します。つまり自分という人間を以下のように認識するわけです。
 「えーと、S.D.L.のボランティアスタッフとして結構がんばっている。アニメ研究会の会長で、夏冬のコミックマーケットには同人誌を出版している。猫を2匹飼ってて、『吉祥寺猫の会』の新入りメンバーだ。アウトドア歴は結構長いぞ。メンバー達とログハウスを共同購入していて、そこで月に一回、運営の例会があるけど、この頃は面倒でさぼっている。コンピューターネットでは映像系、ペット系、アウトドア系は一通り押さえているし、環境破壊の会議室では副議長もやっている」

 また、複数の価値観といっても、それぞれに対してそれなりに賛同していなければなりませんし、まったくメチャクチャでいいと言うわけでもありません。

http://netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/bokusen/senno4.html

「オタク」と自己定義してそれで収まるような、そこに人生を預けるような人格はここで否定されている。そしてこのことは民族とまで言えるような強固な共同体などもう成立しなくなる、ということも意味していたはず。
矛盾は始めからあった。
いやホントはたいして矛盾だとも思ってないし、岡田斗司夫を単なる分析屋だとも思ってないんだけども。



なぜわたしがオタク文化と距離があるかというと、そこにはやはり「かっこよさ」の問題があり、わたしはどうしても「かっこいいもの」にしか心が動かない。個人的には、オタク文化に欠けているのは「かっこよさ」であるような気がして、

http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20080508#p1

zoot32さんは岡田斗司夫を認めているにも関わらず「彼の提唱するオタク文化を勉強しようとはあまりおもわない」理由を注釈でこう説明する。
奇しくも、というべきかまったく同じ日に書かれた別の人のエントリでもこう微妙な表現がされてる。

僕は、岡田さんの事が、嫌いである
岡田さんは、頭が良くて、面白い
なんでそういう事を思ったのかはスッパリと忘れてて、結果こう思ったってことだけ覚えている。

岡田さんって、意識的にも、無意識的にも、とてもみっともない事、格好悪い事をやっていて、それを「露悪ですよ」「仕掛けてますよ」と超然としているフリをしているのが「嫌い」なんだけど、実は半分以上そうじゃないと思う。「オタキングが言うのだから間違いない!」と自分で書くのは露悪だけど、自分で「痩せたらモテますよ」なんて言ったり、「日本人論です」なんて自分で言っちゃうのはかなり無意識でみっともないよね。
でも、頭が切れて、面白いってのは知ってるから、その「みっともなさ」と「面白さ」って、かなりの連関があるんじゃないかとか思っているんです。

http://d.hatena.ne.jp/mcatm/20080508/1210275076

どちらもおそらく非難続出な状況へのカウンター的心情によって書かれているものだと思われる。
その才能は最大限認めている。ただ、誰も、岡田斗司夫にはなりたくない。
もし仮に「敗因」といっていいようなものがあるとして、それがこういうところにあるのだとしたら、それは悲しい話だと思う。


もっともオレはオタクが死んだとも岡田斗司夫が死んだとも思ってないし、何より差別もされなくなったからというのはちょっと甘い見込みのような気がしてたりする。