映画『アバター』を見た (1)

事前に調べたネット情報のもと、IMAXのある劇場で吹き替え版を見てきた。はしっこでは3Dが見づらいかも・・・っていうので、ど真ん中の席にしたのはいいが前から3列目はまずかった。スクリーンが視野にギリギリ収まるかという距離感。
結果、開始5分で酔った。ゲームで酔うことはあんまないのに。


気持ち悪い。が、臨場感すげー。草とかなんか光ってるのとかがいちいち美しい。ストーリー上どうでもいいようなシーンでも画面の美しさに魅入ってしまう。3Dすげー。竜に乗って飛びまわるとことかちょっとキンタマ縮むレベル。ちょっとだけど。まぁ普通の画面ではこうはいかないだろう。
で不覚にも終盤、感動してしまった。鼻ツン、涙ちょろり。いかにも監督が「さぁここ感動するとこだよ」みたいな演出のとこで。ストーリーは陳腐とか色々言われてるやつで。オレが。
以下ネタばれしつつ、色々思うところ。

劇中、ゲームのゲの字も出ないけど、この映画を語るにはゲーム文化やゲーム世代の言葉を持ち込む必要があるのではないか。なにしろこの映画が最終的に放つメッセージは「ゲームの中で、おれは生きる!」というものなのだから。

ゲームの世界で、おれは生きる!:『アバター』 - 冒険野郎マクガイヤー

なるほど一見するとどっかで見たような演出やストーリーの流れだったりで、悪く言う人の気持ちもよくわかるんだけど、そう言われてる部分はやはりゲーム的演出として見るべきだとオレも思う。
パンドラという星を、住人を、虚構とはいえどこかに本当にあるかもしれないものとして描いているのだとしたら子供だましだが、ゲームとしてならすばらしい完成度のとてもリアルな設定と言える。どこかで見たような話、もゲームとして見ればむしろ燃える要素。
なので普通の意味での映画のストーリーと言うべきものはかなり地味な部分で進行していて、結果まさに「ゲームの中で、おれは生きる!」というような結論をむかえる。
オレが感動したのも当然この場面。主人公が「『おれたち』の星を・・・」と表現したことであちらの世界で生きていく決断が明らかになるシーン。
これに感動できるかどうかはこの決断にどれだけの説得力があるかにかかっているが、ここで効いてくるのがそれまでさんざ見せつけられた超美麗で迫力ある3D映像なのだった。
こんな美しい世界をリアルに体験したのだから主人公の決断もうなずける。共感できる。
いや体験したのは観客でもあるわけだ。主人公が「アバター」にシンクロするのと同様に、観客もまた「映画の主人公」にシンクロして物語を体験している・・・
いやーなかなかよくできた話ではないか。映像の素晴らしさ、がストーリー上欠くことのできない最も重要な要素となっているのである。

まず、排泄や食事の描写がほとんど無い。こういう未開部族モノでは昆虫や生き血を飲んでゲーとなるけど頑張って飲み込み、同じ釜の飯を喰う仲間として認められる……というのが定番演出だと思うのだけれど、そういうのが全然無い*2。汗や体液、家の片隅に積もった埃や染み、死体に群がる虫といった、ゲーム世代が嫌悪感を引き起こすであろう要素も、注意深く排除されている。自然と寄り添って暮らす原住民である筈なのに、やけにクリーンなのだな。

ゲームの世界で、おれは生きる!:『アバター』 - 冒険野郎マクガイヤー


映画を観終わって引っ掛かったことが一点。
いわゆる濡れ場というか主人公がヒロインと抱き合う描写があるけど、なぜにそこであの体に付いてるケーブルみたいのを繋ぐ描写がなかったのか。絶対気持ちいいはずだ。というか彼らナヴィ族は使っているとしか思えない。その発想がないっていうのはなんなのかと。
これは帰ってきて色々調べていたらすぐに分かった。
http://www.cinematoday.jp/page/N0021734
どうやら大人の事情でカットされてるだけでDVD版ではきちんと描かれているらしい。
なるほどそういうわけか。思い返すと色々合点がいく。
しかしここは本来きちんと描かれねばならない大事なシーンだったんだよなー。。仕方ないのかもしれないが、実に惜しい。
パンドラがどれほど美しい世界でも、そこには食事がない、排泄がない、(主人公にとっては)睡眠もない、すなわち生活がない。
その中にあって唯一つあったもの。それがセックスによる交感。しかも現実世界ではありえないような、完全にひとつとなれる深い交わり。最高の快感。
これがあってこその主人公の決断でなければならない。ただ美しいだけの世界なら三日で飽きる。人間の持つ根源的かつ形而下な欲望を満たす世界でなければ・・・映画としての品は落ちるのかもしれないけども。。。


とにかく2年ぶりにブログを更新してしまうぐらい刺激的で面白かった。もっかい見にいきてー