『アバター』を通じて宮崎駿を考える (2)

アバターとは何の隠喩だろうか。
第一にそれは映画監督(ここではキャメロン)にとっての映画作りそのものである。CGで埋め尽くした画面の中で自らの分身たるキャラクターを自由自在に動かす、こういった作業そのもの。映画の主人公が体験し、感じたであろうある種の快感は、程度こそ異なるものの映画を作った監督の快感とかなり近い。
そうだとするとそこには、監督の行為を疑似体験する主人公、を疑似体験する観客、となんだか合わせ鏡のような妙な構造が浮かび上がる。

  • 人工的に創造した空間で同じく人工的に創造したキャラクターを好きに動かす。

こういった作業は小説家、漫画家、アニメ監督なども行っている。これらは特に「言葉」や「絵」など世界を創造する素材自体、人工的産物によっているもの。
で本来「人工的に世界を創造する」ことも「人工的なキャラクターを好きに動かす」ことも特殊な才能を持ったごく一部の人にしかできないことだったが、それを普通の人にも疑似体験させる装置としてコンピュータゲームが登場する。更にその延長線上にSNSとかセカンドライフとかのネットサービスがあるが、大体こういう理解。
でまぁ要するに映画を見て「こういう事に情熱を注ぐ人間とはなんぞや」という問題を改めて考えさせられたのだった。なんせ主人公も、観客も、監督も、程度の違いこそあれ、皆同じ方を向いて同質の快感に打ち震えていたわけだから。




問題は宮崎駿である。
設定とかストーリーに似た部分がある、というのでちょくちょく名前が出てきていて、キャメロンも「オマージュしてる」なんて言っている宮崎駿とその作品。
上記の理由により、CG映画監督がアニメ映画監督に共感ないし共鳴があるのは、良くわかる。でもそこにはもう一歩踏み込んだ、単に観客として見ているだけでは気づかないような、作家同士だからこその共感、メッセージのやり取りがあるのではないかと考えた。つまりこの映画を「キャメロンによる宮崎映画の解釈」と捉えてみる。


「惑星パンドラ」は「腐海」であり、その世界に唯一深くコンタクトのとれる主人公がグロテスクだが美しい大自然の素晴らしさと、その自然と共生する人間の尊さを学び、二つの世界の共存を図るべく奔走する・・・と例えば『風の谷のナウシカ』なんかとの共通点は多い。
大自然の素晴らしさ、奥深さを表現する宮崎駿の手腕は凄い。大自然の意志を代弁する、物言わぬ「王蟲」がどれだけ深いメッセージを投げかけていたか。
映画版を見て感動した人間としては、しかし原作版のナウシカを見てその意外なオチにびっくりする。あれ実は大自然の意志じゃなかったんだね。なんか過去の超テクノロジーを持った人間の壮大なプロジェクトの一部だったんだと。その意志を王蟲は代弁していたんだと。
いったいあの感動はなんだったのかと言いたくなるような話。
この時から宮崎駿はオレの中で要注意人物であったのだけど、この辺のことについて改めて考えてみる。
そもそも「大自然の素晴らしさ」を伝えるのに、なぜに「アニメーション」なのか。前提条件だからあまり意識しないが、よく考えれば変な話だ。要するに絵、だからね。人の手になる純度の高い人工物。それを錯覚を利用して、まるで生きているかのように動かすのがアニメーション。
このあたり『アバター』では自覚的だ。パンドラにおける自然の美しさをフルCGでもって表現する。実写の映画だからホンモノが使えるはずなのに、である。
その結果この映画における唯一と言っていいかもしれない自然としての「人間」とCGによるアバターが同時に画面に収まっている時、強い違和感を感じさせてしまうことになる。パンドラおよびそこに住む怪物たちにはほとんど違和感なく溶け込めるアバターも、ホンモノの自然と並ぶとどうしても浮いてしまう。ごまかしきれない。
だからこの映画において、いかに自然が美しく見えようと、自然と共生する未開部族を称賛するような描写がどれだけあろうと、それが単純な「自然賛歌」のようなメッセージにはなりえないことが分かる。そもそもニセモノとして描いているわけだから。
アニメーションが全部「絵」であり、全てが人工物であるがゆえ、人間も動物も、怪物でも妖精でもロボットとでも、なんだって違和感なく画面に収めることができるのと対照的だ。
その一見融和した世界に亀裂を入れるのが『アバター』の持つ構造ではないかと思う。結局のところ宮崎駿もまた、本来の意味での「自然」を描きたいわけじゃないのではないかと。





アバター』では物語の終盤、人間が操る近代(未来)兵器と槍を武器とするナヴィ族の戦いが描かれる。そこで最終的にナヴィ族が勝つことに文句を言っている人がいた。いわくハイテクノロジーにローテクノロジーが勝つなんてありえない。まったくその通りだろう。まぁオレは単純にあれは「FPSゲーオタ」VS「ファンタジーRPGオタ」の戦いとして見たからどうでもよかったんだけど・・・
だがこれもよくよく考えてみる必要がある。どっちがハイテクなのかということだ。少なくともアバター操る主人公に限って言えば超ハイテクノロジーで戦っている。アバターとは、ブレイン・コンピュータ・インターフェイス(BCI)のような技術を使った遠隔無人兵器でもあるわけだから。
しかしこんな技術のある時代設定なのに、近代兵器の方が全部有人であるのは妙な話である。
例えば大佐の乗ってるバンツァーみたいなの。あれ別に人が乗ってる必要なくね?と思う。
逆説的言うとこうも言える。
主人公が操ってる竜みたいなの。あれ別に人が作った兵器としても成立するんじゃね?と。
そうなんだよね。もうあそこまでの技術があったら、ロボットだろうが怪物だろうが、なんだって遠隔操作で自由自在に好きなように動かせるはずなのだ。
だからあの戦いはハイテクノロジーがローテクノロジーを駆逐する、というごく当たり前の戦いとして見ることも可能。穿った見方をすれば、であるけども。
あのバンツァーみたいのがいかに、現在ではまさにゲームでしかありえないような、なめらかな動きをしていることか。人の細かな動作もほぼ完全に再現していて、まるで生き物のよう。ロボットの目指すところがその極限において「生物のようなもの」にあることは想像に難くない。だから実はその完成形として提示されているのがアバターであり、あるいはパンドラの怪物たちなんじゃないだろうか。
ナウシカにおいてはどうか。人類のテクノロジーの粋を集めて作られた最終兵器たる巨神兵は、ほぼ完全に生物として描かれていた。自然の猛威たる王蟲の大群を薙ぎ払う、超テクノロジーたる生物兵器。しかも原作版によれば結局どちらも人為によっているのだった。


両者に共通するテーマをあえて言えば「人工の究極としての自然(生命)」ということになると思う。