山寺のある風景

山形県山形市立石寺という寺がある。
通称山寺。芭蕉の「静けさや岩にしみいる蝉の声」の句で有名だ。
観光名所だから、という軽い気持ちで行ったことがあるのだけど、とてもすばらしい場所だった。
長い石段を登っていく。岩山のあちこちに色々な信仰の跡があるが、そのどれも自然に溶け込んでいる。あるいは古い信仰はおれには自然と見分けがつかない。切り立った岩の中途とかよくぞそんなところに、というような場所に何か建っていたりする。歴史ある寺なのである。
不思議な景観を楽しみながらいよいよ奥の院に到着。
そこに軽い気持ちで、予備知識なく訪れた観光客をギョッとさせるあれがあったのだった。
後で調べて分かったが「ムサカリ絵馬」というらしい。
http://www41.tok2.com/home/kanihei5/mogamimukasari.html
実に感動的で物悲しく神妙な心持にさせられる。
「婚礼人形」を靖国神社で見たことがあったが、あれも東北の古い信仰が由来となっていたのだった。
人形は女ばかり。場所は農村部の東北。「息子」にかける母親の情熱は尋常ではない。(愛しのアイリーン
この信仰は現代もなお生きている。
それなら、現代の親たちが未婚で先立ったオタクの息子の為に、彼の好きだったフィギュアを奉納する日も、そう遠くないかもしれない。


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ここはたしかに一つの聖地である。
人工的なはずの建物が自然と奇妙に融合している。死者の魂が集まる山、というのは日本の一般的な古い信仰だが、ここはいかにも舞台としてふさわしい。人工と自然の融合する場が死者=虚構と生者=現実の邂逅する場になる必然。
死者は人における虚構の原点だ。
切って無くなったはずの足が痛む。「幻肢」と呼ばれる現象は、実体としての足が無くなっても、脳にそれに対応した神経回路が残る為に起こる。
我々が死者を「幻視」するのも同じ理屈によっているのだろう。親しい人であればあるほどそれは残る。実体がないことの方が、むしろ不思議でならない。


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輪廻転生は男の世界観だ。
男の一生は子宮から出で成人し子宮へ向かって突き進んでいくもの。
循環する世界を生きている。
女はどうか。
伊藤潤二の『富江』に男から見た女の生の異質性が描かれている。
すなわち無限の増殖。あるいは永遠の同心円構造。
それが女のあり方なのだ。


釈迦における悟りとは輪廻転生する世界からの離脱だった。全てのものに仏性があるのに、たいして変わらない女が悟れないとされるのは、そもそも女は輪廻転生する世界を生きていないからだ。悟る必然性を欠く。すでに悟っているとも言える。


翻って日本が「女ならでは夜が明けぬ」という女性原理によっている国であることはやっかいな問題である。
我々には釈迦とはまた別な悟りが必要とされる。
釈迦の後、56億7千万年後に顕れるとされる弥勒菩薩は、多分、女であると思う。


一先ず終わり。



大東亜共栄圏再び
脳の中の幽霊