表現の目的化

強い動機を持った表現活動には、その人の心にある抑圧を解放し、精神を健全に保つ機能があると思う。
その表現活動が人になんらかの感動を与えるものであるとしたら、それはその抑圧が他の人にも存在していて、抑圧からの解放を疑似体験することができるからだ。


表現活動を通して心への圧力は弱くなるため、基本的には「表現する動機」も弱まりいずれは失われていく。
しかしある種の人々にとっての表現活動は、やればやるほど抑圧は解放されるどころか強まり、ひいては精神の健全さを失わせていく結果になることもある。


その原因の一つはやはり、表現活動が商売になるうる、ということにあるんだろう。その場合食っていくため、ないし食えるようになるため、表現し続けねばならず抑圧を次々作りだしていかなければならない。
精神を健全に保つという目的は失われ、手段であったはずの表現活動が目的化してしまう。


まったくもってバカバカしい、とも言える。
一方そうした原因がなかったとしても、「手段の目的化」というのは人間の根本的な性質とも言えるわけで、実にすばらしく人間的な成り行きである。
元々は単なる生理現象なわけだから。圧力で出る、っていうのは要するにウンコだから。そこに快感を見出してこその人間。


そこでまぁ終わってもいいけど、しかしそこからさらにもう一回ひっくり返って、心を無にして聞きたいアンパンマンのマーチ

http://www.youtube.com/watch?v=BUGh-7Y5kZA