意識睡眠起源説

というのを提起したいと思う。
最近改めて『唯脳論』を読み返しているのだけど、忘れているところ、かつて読み飛ばしていたところなどがたくさんあって、新鮮で面白い。
以下いちいち断らないが、主に『唯脳論』他養老先生の著作の知見が基になっている話であります。


そもそもは『唯脳論』において「睡眠」にさかれている章が少ないな、と思ったことがきっかけ。睡眠は人生の三分の一を締める脳の状態だ。そこまでとはいかなくとも、もっと多く語られなければならないことがあるはずではないのか。それができないのは睡眠時の脳がまだ科学的によく理解されていないからなんだろう。


養老先生は何度も繰り返し、しつこく言う。意識および脳をそんな高級なものだと思うな。脳に騙されるな、と。



自意識を構成する二つの階層

人間が起きている時の「自分が何をしているのかを知っている私」という自意識は、一先ず二つの階層があれば成り立つ。
第一の層は五感から入力される膨大な情報を処理し、運動系へと出力する知覚の層。ここまでは動物とほぼ一致する状態。
そして人間のみに成立しているとされる第二階層、入出力をしている状態を眺めつつ「何でオレはこんなことしているんだろう」とまったく関係のないことを考える、つまり今現在の入力情報とは別な、関係のない情報の処理、をしている状態。
二つの階層があり、かつ第二階層が第一階層を把握している、というのが人間が起きている時の「意識」である。
そしてこの第二階層の成立とそれによる把握を、人間のみに発生する神妙不可思議な独自の状態だ、と我々は普通考えている。


しかしよくよく考えてみると、二つの階層自体は人間以外の動物も持っている。少なくとも眠る動物であるならば。
生物が眠っている状態とされるそれは、要するに五感からの入出力を脳が殆ど行っていない状態のことである。それは脳が休んでいるのだ、と言う素朴な実感は、現在科学的に否定されている。脳におけるエネルギー消費は覚醒時と睡眠時とで殆ど変わらないことが分かったからである。
そこでは覚醒時の、あの膨大な情報の入出力に匹敵する何かが行われている。何が行われているにせよ、そこが脳である以上、行われているのが「情報処理」であるのは間違いないだろう。
そしてそれは要するに「今現在の入力情報とは別な、関係のない情報の処理をしている状態」なのであり、動物もまた二つの階層を行き来している、と考えられる。



覚醒と睡眠

人は人生の三分の一を、寝て過ごす。三分の二は起きているわけだが、常に自意識を持っているというわけでもない。時々人は、起きていながら「我を忘れる」。何か物事に極度に集中した時だ。時はあっという間に過ぎる。
人間が極度に集中する時というのは、例えば五感を介しての今現在の情報の入出力に集中した時だ。モノづくりをしている人、スポーツをする人などによく起こる。試合に集中したボクサーは、しばしば試合のことを覚えていない。
あるいは逆に五感の入出力をまったく忘れてしまう集中というのもある。自分が何を見ているか、聞いているかまったく認識のない、あるいは意味をなさなくなる集中。深く考え事をする人、思い悩む人にそれは起こる。
彼らもしばしば考えている私、悩んでいる私、という認識はない。そんなことはないという人もいるかもしれないけど、それはその人が、深く考えたことも思い悩んだこともないからだと思う。「エウレーカ!」と叫びながら裸で駆けたアルキメデスに、そんなものがあったとはとても思えない。あったとしてもそれは「考えていた私」であり、すでに過去となっているものでしかないだろう。


いずれにせよ、人の覚醒時においても二つの階層が「同時的に」成立しなければ自意識は成立しない。どちらか一方の階層に偏ると人は我を忘れてしまう。
第一階層に偏った時のそれは、人間以外の動物の覚醒時に一致する。
では第二階層に偏ると?
それは動物における睡眠時に極めて近い。人間が深く考えたり思い悩む時に、身体をそんなに動かしてるわけがない。アルキメデスは風呂に入っていた。身体を休めている時であったのは必然である。
つまり人間において「自意識を持っている」という独自の状態を、人間以外の動物における「覚醒時」と「睡眠時」が脳において同時的に成立している状態、と見なすのが『意識睡眠起源説』のその骨子となる。


人は一種の「まどろみ」を生きている。
そう考えることによって、意識を巡る様々な疑問を無理なく説明できるように思う。
そもそも人はいつ意識に目覚めたか。
それは文字通り眠りから目覚めた、まさにその時であると考えられる。半覚半睡のぼんやりマナコ。頭はまだ半分夢の中で、しかし目覚めた以上五感の入力も処理しなければならない。つかの間訪れる、第一階層と第二階層の重なりあうこの瞬間。ここが意識の発生する余地となったと考える。
要するに人はこの瞬間を引き延ばし拡大してきたのだ。逆に言うと、人は実のところ瞬間的にしか覚醒しなくなっていったのである。人生の三分の一を寝て過ごし、後は殆ど寝ぼけマナコ。そしてふいに集中し一瞬動物的に目覚める。
それが人間の一生となった。



イルカに意識はあるか

欧米人の偏見だとばっかり思っていたこれにも、なるほど根拠はあった。
イルカが示す不思議な習性。イルカは右脳と左脳を交互に眠らせることができる。

頭頂部に呼吸のための独立した噴気孔をもち、そこから肺呼吸する。呼吸の周期はおよそ40秒である。 イルカは一度も泳ぐのをやめず息継ぎもきちんとしながら常に泳ぎ続けている事から、かつてはイルカは全く眠らないのではないかと言われていた。しかし、イルカは右の脳と左の脳を交互に眠らせる事(半球睡眠)ができる特殊な能力があることが分かってきており、眠らないという説は現在ではあまり有力ではない。目をつむってから息をするまでの約一分間×300回〜400回が一日の睡眠時間であり、一定方向に回転しながら眠ることが知られている。この回転方向は北半球のイルカは反時計回り、南半球のイルカは時計回りに回ると報告されている。ちなみに、右の脳が眠っている時は反対の左目を、逆に左の脳が眠っているときは右目をつむりながら泳ぐ。

イルカ - Wikipedia

『意識睡眠起源説』による意識の発生の前提、「第一階層(覚醒)と第二階層(睡眠)の脳における同時的成立」をまさにイルカは満たしている。従ってイルカに人間に近い自意識がある可能性は極めて高い。つまり起きて現実(今)の情報処理をしている右脳に、眠っている左脳が気づいている可能性だ。
もっとも「第一階層(覚醒)と第二階層(睡眠)の脳における同時的成立」は必要条件であって充分条件ではないから、必ず自意識が発生するわけではない。特にイルカでは、短くかつ左右反転してしまうので気づくだけの時間的余裕があるのかどうか。だけどまぁあっても不思議ではないと思う。
しかし仮にあったとしても、それは我々が普通考えるところのイルカが起きている時、ではないことが分かるだろう。イルカにおける自意識は我々が寝ていると見なすその時にこそ、発生の余地がある。
ところでイルカの示すこの半球睡眠。群れをなす鳥類でも確認されているらしい。
なるほど頭がいいと言えばカラスだ。昔住んでいたところで、朝方よくカラスが鳴いていてうるさかった。寝ぼけマナコで聞いているに、どうも会話しているように思えてしょうがなかった。カラスにはちょっと怖いところが確かにある。


以上のことから人間に近い自意識があるか、あるいは今後発生する可能性が高いのは、人間に近い猿よりも半球睡眠を持つイルカや鳥類であることが予想される。
そしてもう一つ。
イルカや鳥類の示す半球睡眠が発見されたのは、それが右脳と左脳に局在的に起こっている現象だからである。解剖学的にはっきりと分かれている器官に、別々に起こっている、からこそそれは容易に理解でき発見できた。しかし人間におけるそれはそう単純ではなく、脳にいわば偏在的に起こっていると考えられる。だから未だにそれが発見されず、理解されない。
しかしイルカや鳥類の存在は、覚醒と睡眠が生物の脳において同時的に起こりうる現象だ、ということを証明している。




ではヒトにおいてそれがどうようにして可能になったか。それはおそらく脳の拡大、大脳新皮質の拡大と無関係ではないだろう。我々が半覚半睡の期間を拡大していく過程は、同時に脳の容量の拡大を伴わなければ不可能である。五感による膨大な情報の入出力をしながら、また別な情報処理を行うのに容量が必要なことは容易に想像できる。



今の私に出会う過去の私

第一階層(覚醒)と第二階層(睡眠)の同時的成立。
それは確かに同時であるはずだ。しかしそこにはある種の「時間差」が存在する。
第二階層の睡眠時の情報処理とは、つまるところ起きていた時に入出力した情報の「記憶」である。現在からの入出力が殆どない以上、脳は記憶という過去の情報を処理するほかない。
一方、人は覚醒時と睡眠時とでエネルギー消費がほとんど変わらないという。
以上のことは次の式で表わされると思う。

  • ヒトの覚醒時(半覚醒+半睡眠)=ヒトの睡眠時

この式は実は「ヒトにおける睡眠時間がなぜ人生の三分の一か」の答えになっているように思うのだが。。。


それはともかくヒトの意識において時間差の問題は非常に重要であると思う。
「自分が何をしているかを認識している私」の私とは過去の私である。過去の私が現在の私に出会っている、というのが人間の意識のあり方だ。
過去の私とは何か。記憶を司るという「海馬」の情報を主に参照している脳(おそらくは大脳新皮質)のことである。
今の私とはつまり、五感からくる情報を主に参照している脳。
ヒトにおける半覚半睡の偏在は多分このようにして存在しているのだと考える。どちらを参照しているか、は外からは中々分からない。どちらにせよそれは同じ大脳が行っていることだからだ。ミクロにはシナプスの興奮として観察することはできる。しかし何がそれを興奮させるに至ったか、の理解は極めて難しい。


一先ず『意識睡眠起源説』は半覚半睡をこのように定義する。

  1. 半覚=五感の参照
  2. 半睡=海馬の参照


我々の全睡ともいうべき三分の一の睡眠には、三分の二がいわば凝縮されている。普通、夢は覚えていない。人は文字通り「無我夢中」で夢を見るからだろう。
そこで起こっていることは未だ大きな謎である。おれはそここそが意識の起源、その故郷であると考えるのだが、さてどうだろうか。
人間の意識はちっとも高級なものではなく、要素に分解すれば動物となんら変わるところがないのではないか、と思う。


**


今おれはパソコンでこれを書いている。さっき突然「Adobe Flash Player」の更新画面が勝手に立ちあがった。パソコンに今、情報の入力を行っているのはおれである。こいつもまた関係のない、別な事を裏でしているわけだ。


(2)睡眠肉体改造説 - ぶろしき