(2)睡眠肉体改造説

ここで重要なことはふたつある。ひとつは、デフォルト・ネットワークへの言及だ。われわれは、いとも簡単に夢想に陥ることから、夢想は思考の「デフォルト・モード」だと考えられる。そしてもうひとつは、実行とデフォルトの両領域が同時に活性化したことだ。これは、夢想というものが、これまで考えられてきたほど「無心」の状態ではない可能性を示唆している。夢想は、睡眠時の夢と、覚醒した意識の中間にある、境界的な空間に存在しているようなのだ。それは、起きてはいるが、十分に現在に焦点をあててはいないような空間だ。

「とりとめのない夢想」と創造性|WIRED.jp

いやびっくりした。
『意識睡眠起源説』を書いてほどなくこんな記事がアップされるとは。解釈こそちょっと違うものの、殆ど同じ話じゃないかと。

1)夢の外へ

この世は夢、だが夢ならぬ外の世界があり、そこへと目覚めていく。

〜中略〜

2)夢の中へ

この世は夢、ならば、さらにその内へと、いわば夢中にのめり込んでいく。

〜中略〜

3)夢と現のあわいへ

この世は夢か現か、その「ありてなき」がごとき生をそれとして生きようとする。

http://kousyoublog.jp/?eid=1454

もう一つ。これもある意味同じ話だと思われる。「無我夢中」って表現を何気なく使ってハッとしたんだけど、この形容には『意識睡眠起源説』的世界観が内包されている。なぜに昔の人は何か物事に集中している人を指してこんな形容をしたのか。理屈はともかく、つまりは昔の日本人はそういう世界を生きていたのだろう。
結局これは科学の話でもあるのかもしれないが、同時に日本語に含まれる日本人の世界観の説明とも捉えられる。最先端の科学的知見が、昔ながらの日本人の世界観の正しさをあるいは証明するのだとしたら、こんなに面白いことはない。


ともかくも科学的考証が思いがけずついてきたので、話を次に進めたい。
つらつら考えてみるに、この話は三つで一つの話になりそうなので。



夢見る脳は身体を作る

まず二つ前提を置く。

  • 脳は情報処理器官である
  • 脳の情報処理の結果の出力先は身体である

この二つの前提から「生物における睡眠とは何か」について考えてみたい。
起きている時と寝ている時で脳の消費エネルギーが変わらないことから、睡眠時の脳が決して休んでいるわけでなく、また別な活動をしていることは分かった。
では身体は睡眠時に休んでいるのか、と言えばどうもこれもただ休んでいるという訳でもない。
まず成長期においては、成長ホルモンというのが睡眠時に分泌される。寝る子は育つ、というが寝なければ子は育たない。
あるいは一晩寝ると出る筋肉痛。オレはもう二日後に出る年になってしまったが、あれも要するに痛んだ筋肉が寝てる間に超回復して、筋肉が増強されたその結果だ。
つまり身体にとって睡眠とは構造自体の成長ないし改造がなされる期間であるということが言える。
このことから以下の因果関係が思い浮かぶのはごく自然なことだと思う。

  • 覚醒脳→身体を動かす
  • 睡眠脳→身体を改造する

矢印は脳の情報処理の結果のアウトプットを意味する。
つまり覚醒時の情報処理の結果は身体を動かすことで表出され、睡眠時の情報処理の表出は身体を作り変えることにあるのではないか、ということだ。
睡眠時の脳に覚醒時に匹敵するほどの活動が認められる以上、その「情報処理の結果」はどこかに出力されなければおかしい。もちろん脳も身体の内であり、一口に脳といってもそれは様々な器官からなっているわけなので「脳から脳へ」という出力であっても問題はない。
ただ脳が睡眠時に扱える主な情報とは基本的には記憶である。起きていた時の記憶を使っていったい脳は何がしたいのか。それが環境へ適応するための身体の改造である、と考えるのもまた自然な発想だろう。
その為なればこその活発な脳の活動。
これが「睡眠時の膨大なエネルギー消費」の最も無理のない説明になるのではないかなと。


その証拠は今のところない。ただし睡眠時にしか分泌されない「成長ホルモン」は極めて示唆的である。

下垂体(かすいたい)または脳下垂体(のうかすいたい)とは、脊椎動物の体に存在する器官のひとつで、多くのホルモンを分泌する内分泌器官。脳に接して、脳の直下(腹側)に存在し、脳の一部がのびてぶら下がっているように見えることからこの名がある。

脳下垂体 - Wikipedia

脳に直接接続しているこの下垂体は、神経系とはまた別な脳の出力を担う器官、と考えて問題ないように思われる。



内因的進化論への飛翔

しかしこう考えてくるといったい生物において「休んでいる」なんて状態があるのかという気がしてくる。それは人間が二重構造の意識、半覚半睡という脳に負担の掛かる無茶をしていることからくる一種の錯覚なんじゃないか。
脳も身体も覚醒睡眠どちらにおいても、それぞれに色々な事をしており生命とはこういう形式で現実を生きているのだと思う。


さて、もし今後睡眠時の脳と身体の改造との因果関係が明白になるようなことがあるとすれば、それはいかなる価値を持つだろうか。
それはひょっとすると、遺伝子と自然選択が全てを決定しているとする外因的な進化論に付け加えるべき、内因的進化論への地平を開くかもしれない。
ダーウィニズムによって「チョウチンアンコウ」みたいな奇妙奇天烈な生物が出来上がるなんて、誰も本気で信じてはいないのではないか。それだけではどうしても納得できない、いわば狂ったような形態を生物は時折見せる。あの狂気が実は睡眠時の「夢」を由来としているものだ、と説明されたなら少なくともオレは納得するだろう。


昆虫におけるサナギという形態は睡眠のアナロジーだ。サナギとなってしまえば感覚器によって環境の情報を得ることは無意味になるが、ここで蝶は、というより芋虫は、徹底的に肉体を改造し蝶となって空へ羽ばたく。
有名な『胡蝶の夢』の寓話が蝶をモチーフに選んだのは決して偶然ではない。
蝶はサナギの時いったい何を見ているんだろうか。『ドグラマグラ』における胎児のような夢をひょっとしたら見ているのかもしれない。
蝶にとって芋虫とサナギと蝶とどれが現実かは蝶にしか分からないが、あるいは蝶にだって分からないかもしれない。