(3)言語世界改造説

とりあえずここまでの流れ。

  1. 意識とは覚醒と睡眠が脳において同時的に成立している状態
  2. 半覚=五感の参照、半睡=海馬の参照
  3. 睡眠時の脳は身体の改造の為の情報処理をしている
  4. その出力器官の一つが脳下垂体ではないか


「覚醒と睡眠が脳において同時的に成立している状態」を意識としてみたわけだが、しかし人間にとっての意識はそれだけで説明できるものではない。言語活動は人の意識にとって不可欠であり、意識と言語とは同じものの別な表現と言っていいぐらいのものがある。
『意識睡眠起源説』でイルカが意識を持っている可能性について考えたが、しかしそこに言語が存在しないとすればその意識は仮にあったとしても、我々の想像を絶する。自分自身についても言語習得前、すなわち「物心つく前」にどのようだったのか覚えていないのは当然として、想像も難しい。
というわけでここまでの文脈から「言語とは何か」についての一つの見方を示し、一先ずこの話を終わりにしようと思う。



アナロジーとしての言語

言語とは何か、という問いは矛盾をはらんだ設問である。それに言語で答えなければならないのだとしたら、いったいそこに答えはあるのかという。意識というのが人間にとって扱いづらいのも同じ理由によっているのだろう。
ここで試みようとする説明とは要するにアナロジーである。言語は何と同じか、と形式の類比によってその本質に迫りたい。これは同時に人間活動の一切を脳機能の表出とみる『唯脳論』的な説明にも繋がる。

それは文字通り眠りから目覚めた、まさにその時であると考えられる。半覚半睡のぼんやりマナコ。頭はまだ半分夢の中で、しかし目覚めた以上五感の入力も処理しなければならない。つかの間訪れる、第一階層と第二階層の重なりあうこの瞬間。ここが意識の発生する余地となったと考える。

要するに人はこの瞬間を引き延ばし拡大してきたのだ。逆に言うと、人は実のところ瞬間的にしか覚醒しなくなっていったのである。人生の三分の一を寝て過ごし、後は殆ど寝ぼけマナコ。そしてふいに集中し一瞬動物的に目覚める。

それが人間の一生となった。

この『意識睡眠起源説』を別な角度から見ると、それは睡眠脳の覚醒世界への浸潤の話である。人間のこの生の形式は、イルカが殆ど起きていて寝るときには半分ずつしか眠らないという形式をとっていることと非常に対照的だ。人間は三分の一寝ていて、起きても殆ど半覚半睡でこれはイルカの睡眠時と同じ。要するに大部分睡眠脳によって生きていることになる。動物に身体能力において勝てないわけだ。
ともかくもこの睡眠脳が覚醒世界に浸潤した結果、そこでほどなくあるいは同時に「言語」というものも発生したと考えられる。
まず考えなければならないのは、脳→身体の因果関係である。

覚醒脳→身体を動かす
睡眠脳→身体を改造する

『睡眠肉体改造説』によるこの因果関係を信じるならば、覚醒世界に浸潤した睡眠脳は、その情報処理の結果をどこに向けて出力するのかが問題となる。もちろん脳の出力先は一先ず身体にしかないわけだが、しかし全睡している時のように身体を改造するわけにはいかない。そこは運動系としてすでに覚醒脳に使われているからだ。動かしながらその構造を変えるなんてことは不可能である。
言語は基本的に運動系によって出力される。話し言葉であろうが書き言葉であろうが、あるいはボディランゲージであろうが、身体を動かさなければそれは表出されえない。
しかしそれも構造的かつ能力的な問題に過ぎないかもしれない。最先端の科学技術では脳波を直接読み取って言語を表出できるという、一種のテレパシー能力が確立されつつあるからである。つまりはテレパシー能力があればそれでもいいわけで、言語が様々な形式によって表わされうる、特定の運動系によらない性質を持っていることは、極論すれば運動系によらなくてもよい、ということを示唆しているように思う。


さてオレは意識睡眠「起源」説を主張しているわけなので、意識の別名であるところの言語もまた睡眠にその起源があると考えている。
言語はただ表出されて終わりではない。それは光や空気の振動を通して他者の目や耳に受容され理解されなければ意味がない。それが変えているのは一先ず他人の行動およびその脳であると言える。
こういった言語の形式は睡眠時のいかなる機能に対応するか。
その対応を例えば脳下垂体の分泌する「成長ホルモン」にオレは見る。つまり成長ホルモンのアナロジーこそが言語である、と考えるのだ。
最初の言語とされる音声言語、しゃべり言葉で考えるなら対応関係はこうなる。
「発声の為の喉周辺」が「脳下垂体」に、「発声された音」が「成長ホルモン」に、「他者の耳」が「身体のホルモン受容体」に。



「世界」を変えるコトバ

かつて言葉には強大な呪術的力があった。
アフリカの原住民なんかなら今でも・・・なんて例を出すまでもなく日本はいまだ「言霊の幸はふ国」である。
太古に遡れば言葉は呪術そのものとなり「世界」に直接働きかけそれを動かすことができるものと信じられていた。
この原初の言語は、身体に対する成長ホルモンと同じ作用があったようにオレには見える。まぁホントは成長ホルモン以外にも色々あるはずなんだけど、一先ずそれでもって原初の言語発達のストーリーを想像してみよう。


始めに(成長ホルモンのアナロジーとしての)言葉を発したのは女、それもおそらく母親だ。母親が子供に向けて発した。それは大体こういう経緯による。
意識の拡大は同時に大脳新皮質の拡大をもたらし、それは頭の大きくなった子供の早産化を招いた。人間の子供はいわば未熟児として生まれるようになったため、一人では何もできず教育の必要性が生じた。つまりそれまではあらかじめソフトの入った状態で生まれてくるので親は「ソフトの使い方」を教えればよかったのが、殆どソフトの入っていない状態で生まれてくる子供に親はソフトの入力をしなければならなくなったわけだ。人間は人間に生まれてくるのではない。人間になるのだ、というあれである。ちょっと違うが。
ともかくそこで後天的な成長の促進、方向づけを行うための「褒め言葉」や「叱り言葉」のようなものが発生してきたのではないかと思われる。


昔サボテンは褒めて育てると元気に育つというようなオカルトが流行ったが、サボテンならいざ知らず言葉を解する人間ならそれが精神面のみならず肉体にまで影響を及ぼすだろうことは想像に難くない。特に子供にとっての母親の言葉ならなおのこと。
言語から呪術的効果が薄まった現代でさえそれぐらいの力はある。
原初においてそれがどれほどの効果を及ぼしたか。




言語は「世界」に直接働きかけそれを変化させ改造できる。
誰にとっての「世界」か。 
多分子供にとっての世界である。
それは一つの奇跡に近いものがあったのだと思う。


過去の私から現在の私へのメッセージ

もし言葉がそれを聞いたものの肉体的形質にまで影響するものであることを認めるならば、これはもはや単なるアナロジーとは言えない。なぜならそれは言語による他者の脳下垂体のコントロールの可能性を示唆しているからだ。そういった価値を持つ言語とは、外に出た成長ホルモンそのものと言っていい。
同時にそれが外に出たことは、睡眠脳による覚醒世界の「身体化」を意味する。
覚醒世界における実際の身体は動かしえても変化させられない。よって「睡眠脳による情報処理の結果」を身体によって外に出力したのが言語である、としてそれが外に出力されるということは睡眠脳にとって「そこ」が身体であると認識されているということである。これはいわゆる「道具は身体の延長」説へのまた別な説明になっているように思う。
そういうわけで「睡眠時において脳から身体に向けて出力する機構全般」を言語の起源として考えてみた。ここでは成長ホルモンで語ったが、これは多分その機構全体の一端なのだろうと思われる。


さて原初の言語であるしゃべり言葉については、もう一つ重要なポイントがあるのでそれについても書いておきたい。
自分の発した声は自分の耳でも聞く。骨伝導として伝わったものも聞く。このフィードバックについて。
言語が睡眠起源というのは、覚醒時の半睡脳から出力されているということであるが、それはそのまま五感として再入力される。つまり半睡脳から半覚脳へと伝わってもいるわけである。
このことは「記憶によって構成される過去の私」から「五感によって構成される現在の私」への語りかけ、とも見ることができる。
この内部で成立している小さな循環の輪。
この輪を外に少し押し広げると親(過去の私)から子供(現在の私)という輪が成り立つようにオレには思えるのである。



再びイルカに意識はあるか

ちなみに『唯脳論』において養老先生が提示したヒトにおける言語発生の条件は「視聴覚の連合」というようなものである。詳細は読んでもらうとして、要は二つの本来関係のないはずの知覚の連合に言語の成立を見ているわけで、ここでは視覚と聴覚の代わりに覚醒と睡眠を置いてみたわけなのだ。
正否はともかくも一つの見方は提示できたように思うので、ここで改めてイルカの意識について考えてみたい。どうもイルカは人間を考える上で非常に重要な形式を持った生物のように思われるので。
人間が覚醒世界へ睡眠脳を持ちこんだのに対し、イルカは逆に睡眠世界へ覚醒脳を持ちこんでいる。半球睡眠というのはちょっと間違った命名で、進化的経緯としてはイルカは本来ぐっすりと眠っていたはずの時間帯に半分覚醒したまま入っていったわけだ。つまり半球覚醒と言う方が正しい。
従って仮にイルカに意識に近いものがあったとしても、それは人間のものとはあきらかに違う、間逆の方向性を持ったものであると想像できる。
だが睡眠世界への覚醒脳の持ち込みというこの形式。
オレには身に覚えがある。
人間にとっては一種の障害、エラーぐらいにしか認識されていないけども、これは明晰夢と同じ形式なのである。かつては「幽体離脱」とも言われていたこの経験は、ひょっとするとイルカにおける意識がどういうものかを理解するための足がかりになるかもしれない。


いったいイルカはそこで何を見るのか。いや「聞いて」いるのだろうか?
この問いはおそらく次の疑問と並行をなす。
遠い昔、イルカの祖先は何を思ってまた海へと潜っていたのか?と。