老人をどう見るか問題

我々が一人分の子育てを犠牲にしてまで、あなた方に貢ぎ続けた代わりに我々が得るものは一体なんなのか。

404 Blog Not Found:備忘録 - そもそもなぜ老は敬われてきたのか

ネット世界における一つの典型的な見方であると思う。
「おばあちゃん仮説」が引用されているが、なるほど古い知恵は大切だ。それがいかに現代に継承されていないか。


日本には「還暦」という言葉がある。この言葉には長い歴史の中で培われてきた日本人の知恵や洞察がつまっているように思う。
干支(十干十二支)がちょうど一巡して、数えで61歳になると還暦。その日には赤い衣服を贈る習わしになっている。赤い衣服とは赤ん坊の産着の意。人は60を境に赤ん坊に還る、ないし還っていく。
これは一年ほど老人福祉の現場に関わっていたオレの経験とも合致する。「デイケアサービス」というのがいったいどういうところか。それは「老人のための保育園」である。人に聞かれた時はそう説明してきた。それで充分伝わる。
「痴呆」とは実に象徴的な症状であり、赤ん坊の成長過程をそのままひっくり返したかのよう。どんどんモノを忘れて出来ていた事が出来なくなっていく。


老人は知恵を持っていたから尊敬された、なんていったいいつの時代の話か。そんな素朴な見方をする段階はとっくの昔に過ぎ去っている。長生きする人も痴呆になる人も昔からいたわけで、現代的問題はその数が多いという割合の問題でしかない。「老人をどう見るか」という根本的なところが変わるわけでもなく、そしてそこには日本の長い歴史の文脈があり、積み重ねられてきた洞察がすでにある。


老人を大切にするあまり子供をないがしろにしている。具体的にいうなら急増する老人の為の施設を作った分、子供の為の施設(産科や保育園)が減っている。そんな因果関係がホントに存在するのか。
それぞれ事実としては存在しているかもしれないが、この二つが因果関係で結ばれているとはオレには思えない。それはある一つの現象の別な表現、コインの裏と表であるのだと思う。
すなわち、我々は老人を大切にしていないのと同じ原因、理由によって、子供も大切にしていない。




介護の世界において、直接現場で老人の面倒をみているのはやはり圧倒的に女性が多い。彼女らのうちの何人かにはまだ小さな子供が居て、家では育児、仕事で老人を介護をしていることになる。形式は違えど今も昔もやっていることは変わらんのだなと思う。核家族もくそもない。ことこの方面に関しては女性にはかなわないと思うが、そのプロフェッショナルである彼女たちが痴呆の進んだ老人らをどう表現しているか。
「かわいい」のだという。男からするとまったく理解不能であるが、しわくちゃの涎を垂らしたようなジジババを「かわいい」と感じるらしい。
深い知恵を持った尊敬すべき老人、なんてひょっとしたら元々男のロマンが生み出した妄想上の存在なのかもしれない。実際妙なプライドを引きずっている老人(多くはジジイ)はこういう施設では嫌わているようだ。DanKogaiのような人がもし何かの間違いでこういう施設にいくようなことがあればまず間違いなく嫌われるね。ダンゲンしてもいい。


結局彼女らからしてみれば子供も老人も対して変わるものではない。もしそこに何がしかの敬意があるとしても、それは「知恵があるから」とか「役に立つから」というような損得勘定からくるものではありえない。
かつては「七つまでは神の子」と言われていた。それをひっくり返せば老人もいづれ「神のもの」になっていくと考えられていたのだろう。白土三平の『カムイ伝』によれば、江戸時代には100歳を過ぎた人は治外法権になるという法律が実際にあったらしい。


人間社会の約束事の及ばない領域。我々がかつて持っていた敬意とはそういう世界に対するものが根拠になっていたのだろうと考えられる。
いったい何を大切にしていないのか、は明白だろう。