「疑似科学」という批判は科学の敗北である

なぜかブログが書きたくなったので唐突に。


疑似科学」を科学の側が対象を批判する目的で使うのは間違っている。
対象ないし現象について科学が取るべき立場は、それが科学のどの分野に相当するかを適切にカテゴライズすることであって批判することではない。もしそれを適切に説明できる分野がなければ新たに作ればいいだけの話。
水からの伝言」は心理学の問題プラシーボ効果です、とかなんでもいいがとにかくなんでも説明してしまうのが科学の強み。
カテゴライズの隙を突く動物の戦略は「擬態」であるが、誰もそれを間違っているとか卑怯とは言わない。
人間界において擬態はなぜか常に倫理的問題に触れてしまうが、別にだからといって科学がそれに習う必要はない。

むしろ問題がより大きいのは、科学の側がその範囲を超えて社会に干渉してくることのほうだ。
ナチスにおける「優生学」の存在が分かりやすいが、こういうものをこそ「疑似科学」と社会の側から科学の側への批判として用いるべきだと思う。
水にありがとうと言うくらい、神社にお参りするのと同じ距離感で見守れないものなのかどうか。
ナチスより隣の変人のが怖いというのはわからんではないが。


今から見れば「優生学」はいわゆる疑似科学なのかもしれないが、当時は最新の科学でもあり、科学を根拠とした政治的主張というのに対抗するのは同じ科学の別な立場によるか、そもそも科学と政治的決定との関連のなさを指摘するかだろう。
人間を動物と見なせば生物学、内面を問題にするなら心理学、社会学、経済学、歴史学統計学とそれぞれの立場から色々な助言が得られるだろうが、いずれもそれのみから政治的結論が得られるというものではありえない。
大体科学はその定義からして未来のことは予測はしえても決定はしないものである。
いかにしてそうなったか、というのは全て起こった出来事を起点にした過去に属したことがらだからだ。


サイコロの次に出る目は過去の出来事(例えば1が10回連続で出続けている)から一切の影響を受けない。
科学は次に1の出る確率は6分の1と予測をすることができる。
しかし1を出すことは決してできないし、してはいけない。
その時点で観測者の資格を失なってしまうから。


原理的には単純明快。
が実際は難しい。
1の出やすい振り方、を研究することはできるので(というかツボ振リは現にできる)その結果次に1のでる確率を3分の1にできる、としてそれはいいのか。
あるいは「今日雨の降る確率は50%です」それを聞いた人の半分は傘を持っていくのか。「99%です」なら皆持っていくのか、まぁ当然持っていくだろう。それなら明日の我々の行動が科学的に決定されていると言えるのか否か。


顕微鏡の中に異世界を発見し、歓喜した牧歌的な時代ではもはやない。
最近目覚しい成果をあげているらしい「ビッグデータ」などは典型なのだろうが、詳しく知らないのでわからない。
そうわからんのである。最新の科学の成果をいうものは。


神はサイコロを振らない」の真意はともかく、今むしろいつのまにか「人間はサイコロを振れない」問題があるんではないかと思う。




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「理不尽な進化」という進化論の本を読んでいて、最後のほうのグールドの「歴史」に対する認識、それを筆者の吉川浩満が擁護しようとしてる部分で読み進めるのが止まっている。ここでいう「歴史」について色々考えてる途中だが、ラグビーでも「歴史を変えた」という表現が普通にされているけども、そこでいう歴史も何なのか今一つよく分からない。上記の話はそれに関係してるので改めて。