数と言語


「神は細部に宿る」の出典はよくわからず最初に誰が言い出したかはわからないようだ。
一応建築デザインの世界の言葉としてでてきたのが有名になったきっかけらしい。
http://okwave.jp/qa/q4385241.html


昔からオレは細かいことが気にならないタチで大体物事を大雑把にしか考えていない。
年をとるとなおさらその傾向は強まり、たいがいのことはもはやどうでもよくなってくるのだが、この世でもっとも大雑把なものの考え方といえば、それは間違いなく「数字」だろう。
リンゴも犬もニュートリノでも、この世に存在するあらゆるものをなんだって「1」という概念に含めてしまえる。
とある小学生が粘土の1と1を合わせたら1ではないか、と反論したという都市伝説があるが、実際よく考えると難しい問題だ。
大きさが2倍になっている、という答えはありうるが普段犬が2匹という時にはその2匹がチワワとチベタンマスティフであることが問題にされることはない。「海」はその定義上あきらかに一つでしかありえないが、生活の利便上いくつもの〜海に分類されている。
とにかくできうる限り徹底的に細部や詳細を捨て去ることによって数字の「1」は確立していて、「1」とはほとんどクオリアのことである気がする。ほらわかるだろ、お前が持っているあの感じ、それが1なんだよ、としか人に伝えることができなくて、概念的に説明しようとすると難解極まりない。


人間においては多分間違いなく言語が先に成立してそれから数字的概念が後から発生したのだろうが、これは数字を道具として使う必要性があったからだろう。「リンゴ持ってきて」ではどんだけ持って行けばいいか途方にくれる。ただこれだけのことに数字がないだけでとても不便なわけ。
犬ならリンゴは持っていける数がそもそも限られるので数を指定する必要性がほぼない。カラスほどの知能では多少数えられるという話があり、孔雀のメスはオスの羽の目玉模様の数の多寡を瞬時に見分ける能力を持っているが、これらはあくまで例外であり動物には数を指定しなければ困る局面が少なく、言語を操る人間には大いにあった。
つまり言語能力がある程度発達すると数字が無ければ困る局面が増え、言語に補佐的な役割を持つものとして数字が生み出され使われていくことになったのだろう。10ぐらいまでしか数えられず、後は「たくさん」と表現する部族があるらしいが、10ぐらい数えられれば生活の用は足りる。
http://www.eonet.ne.jp/~shiyokkyo/rizhong/kazu.html
というか日本語の「ひい」「ふう」「みい」・・・や「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」・・・も10までしか数えられん。
やはり「繰り上がり」という概念に到達するにはひとつ大きな壁があり、これも言語レベルというか文化レベルの発達による必要性が生み出すものだと思われる。




まとめると人間において言語無くして数字の成立はありえず、一方数字の概念を言語的に説明するのは極めて難解ということ。
ここまで「数字」という表記をしてきたけど、これは言語体系に含まれるという意味が強いのでここからは「数」ということにするが、これらのことは数と言語とはどちらかがどちらかに含まれる関係性ではなく、本来は互いに翻訳不可能な別体系のものではないかということを示唆している。
(このことに関しての公式見解をおれは知らない。この二つの関係性、もしくは関係の無さ、はすでに分かっていることなのかも知れないけど、しかしそれが分かるということは「言語的に」分かるということなので手に負えない。つまり数が言語に含まれた時にしか確定できず「数」の側からの反論はない。)
それを別方向から示しているのがコンピュータの存在だろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF
wikiの歴史の項目が面白いが、現在0と1の二進法によるノイマン型を基礎とした電子計算機は人工知能にあと一歩と迫る勢いで進化している。
コンピュータの成り立ちは人間におけるのと対照的に、まず数によって成り立ちその発展の後に必要性に迫られてプログラム言語が生み出されている。コンピュータは本来的には言語を必要としないが、それでは人間が扱いきれないので人間にも分かるように言語に翻訳して「あげている」んですね。ここでは道具として扱われているのは言語(人間)のほう。
もちろん言語無くして、人間からの働きかけなくしてコンピュータは発展、展開しないけども、それができれば人工知能と言っていいわけです。
いずれにせよ言語なくして数によってのみ成り立つ存在というか世界が現実にできそうだといわれている。


もっともそこで成立した「知性」が人間に分かるという保障はない。
結局のところ我々の判断はチューリングテストによる他なく、それはコンピュータがその内容物を人間に分かる言語に翻訳できるかどうか、に掛かっている。
ここでは別の問題、すなわち原理的に「翻訳」は可能なのかという問題がある。
英語は日本語に翻訳できる。何の疑問もなく思っているが犬=DOGと数式にすることができるほどには同じではない。そもそも「犬」に類する言葉がないというような場合もある。
「E=mc^2」はもっとも美しい翻訳として名高いが、これを理解するのにどれだけの知識を必要とするのかを考えれば、それがいかに難しいかはわかる。犬とDOGもたがいにそれぐらいの知識の集積があれば=で結べる等価性を持つことは可能なのだろうが、それは元々の犬とはかけ離れたものになって始めてできるのであって、それを翻訳と言っていいかは疑問が残る。
同じような形式を持つ人間同士でさえこれほど難しいのに相手がコンピュータではちょっと無理がある。


カラスの示す高い知性の証拠として胡桃を道路に置き、車に割らせて中身を食べるという行動がよくあげられるが、これはあくまで人間に分かりやすい行動であるというだけで、カラスが人間が考えるのと同じようなロジックによってそのように行動しているわけではない。また高い知性が他のところで発揮されていてもそれが人間にとって分かりやすくなければ(ロジカルでなければ)それは見落とされるだろう。
それでもカラスに高い知性を認めることはできる。別にどうやってその答えを出したかは問わない。たしかにチューリングテストでしか知性は認定できないが、それは必ずしも言語によらなくてよさそうだ。




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宗教と数の関係性も面白い。
GODは「唯一無二」と説明される。「一にして全」という汎神論の考え方がある。
仏教における「空」を理解するのに「0」の存在は欠かせないだろう。
数の発見、そしてその後の発展と神概念の発達はなんらかの相関関係にあると見ていい気がする。
数を信奉したピタゴラス教団などはその典型であるが、宗教と科学が分離したように宗教と数もまたどこかで袂を分けたようだ。
だが「シンギュラリティ」は数と宗教の邂逅のように見えなくもない。

http://michiaki.hatenablog.com/entries/2015/01/08
http://michiaki.hatenablog.com/entry/2015/01/29/
http://michiaki.hatenablog.com/entry/2015/10/13

宇宙人とコミュニケーションをとるには数学を使えばいい、という話を聞いたことがあるがこれは数学の普遍性を言っていると同時に数と人間とのかかわりの無さ、を示した話でもあると思う。
人間がいなくても数は成立する。
逆にそれ以外のあらゆるものは人間がいて始めて意味と価値を持つものなのである。