数についてのあれこれ

リンゴがテーブルにいくつか転がっているのを数えるとする。
1、2、3・・・
この時リンゴはすでに数え終わったもの、現に今指差し数えてるもの、これから数えるものに分けられ、それぞれは過去、現在、未来に対応する。
耳で聞き取る音には時間の流れの概念が織り込み済みだが、視覚にはそれがあらかじめ備わっていない。
荒又宏がピカソの「眠る女」の指が一本多いのは手を動かしているから説を唱えていたが、マンガでも使われるこういった技法は瞬間的な現在をしか表せない絵に動きを与え、時間の流れを生み出す為に使われる。
物を数えだすと、例えば左から右へと数えていれば、視覚の像も左から右へと流れていく時間感覚にそって分割される。そうでなければすでに数え終わったものをまた数えてしまい永遠に終わらないかもしれない。
映画「レインマン」に登場するサヴァン能力者は床に散らばったたくさんのマッチの数を瞬時に数えることができた。数本ならともかく何十本とあるものを瞬時に数えるというのは、普通の時間感覚をともなった数え方ではおそらく無理だろう。
見ることと数えることが一致している、数えるために見ているというぐらいに何かに特化した能力だ。
しかし孔雀のメスがオスの目玉模様の数の多寡を知るのもまさか数えているわけもなく、サヴァンの研究でもこういった能力は元々誰にでもあって、普通はそれが抑制されていると考えられている。

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著者のダニエル・タメットは、数学と言語に特別な才能を持っていて、この人には数字は様々な質感をともなって感じられるものらしい。
要するに数学を解釈するのに、普通は使わない視覚や嗅覚や触覚の脳の領域まで使っていて、そしておそらくは言語と数学を同じものとして同じ領域を使って解釈しているようだ。
ここで思い出すのは養老先生の、言語は視聴覚の結合によって生まれた説である。
「イヌ」という音を聞いて、視覚的な「犬」をイメージするというのも一種の共感覚と考えることもできる。
共感覚シナプスの過剰結合によってもたらされるとして、しかしそれがまったくないと言語それ自体が生じないのかもしれない。


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もぐらが地中に潜り、こうもりは夜に行動するようになったことにより目は退化し殆ど使わなくなってしまった。
もぐらが驚異的な嗅覚により、こうもりが超音波の反射を聞く特異な能力によって、彼らはまるで見えてるがごとく自由自在に行動できている。
匂いや音を解釈するのに、視覚に使っていたはずの領域を合わせて使うことで、能力がブースとされているのかもしれない。サヴァン能力者のように。
彼らの主観的クオリアがもしあるとすれば匂いを見ている、音を見ているという感じなのかもしれない。
人間の言語操作能力、コミュニケーション能力もあきらかにブーストの効いている能力だ。
それは単に大脳新皮質の拡大によるのか、それとも何らかの能力の欠損によるものなのか。
前者は当然なので後者について考えてみたい。


他の動物と比べた時に、人間が明らかに劣っているのは運動能力である。
同じ体重のゴリラと人間ではケンカにもならない。
二階から猫を落とすと空中で姿勢をひねり、四本足で着地し何の怪我もしない。(誰に教わったわけでもないのに)
イルカショーで見せるイルカの曲芸は修練もあるのだが、まずあの狭いプールで勢いよくジャンプして間違ってプールサイドに乗り上げるということがない。(というか間違ったら多分即死)
彼らは座標の計算はしないし、物理学も必要ない。
運動には考えるだけの時間もない。
少なくともマンモスを槍で倒せるようになる以前には人間とてこういった運動能力がなければ生き残ることはできなかった。
それは次第に失われ退化したけども、その為に使っていた領域は残る。
これを別なものに使えば能力はかなりブーストされそうだ。
あるいはその辺に計算能力の出所があるんではなかろうか。
まぁ人間は異常に器用でもあるので普通にそっちに使われてる可能性も高いけども。