脳の中の幽霊

映画『アバター』と『ネバーエンディングストーリー』はプロットがほぼ同じである。

  1. 物語内物語というメタ構造。
  2. 主人公が伝説の龍を乗りこなす。
  3. 物語内物語の世界は滅亡の危機に瀕していて、それを救う鍵となるのは主人公がその虚構世界もまた現実であると目覚めること。

今から思うと『ネバーエンディングストーリー』の結末は結構アブない。虚構を信じたいじめられっ子の少年はその現実世界でいじめっ子から龍によって助けられる。虚構を信じるとはいわば幻覚を見るに等しい。まぁまだやはりどこか作り物めいた世界だからそんなに変だとは当時思わなかったけども。
そこからすれば3D技術を手に入れたジェームスキャメロンの主張には説得力があった。
スタートレックのカーク船長役、ウィリアム・シャトナーの講演と見事な対比をなす。
彼はそここそが生きるに値する世界だと言う。
どこが?
彼の脳こそが。



唯脳論

「豊かなものをたくさん使うことは格好よく、不足しているものを大切にすることは美しいと感じる、人間のやさしい情知」を堺屋太一は人間社会の普遍的な法則として見出した。
人種にも文化にもよらず普遍性があるならば、それは生得的にヒトが持っている形質によっていると考えられる。
人間にとってたくさんあるもの。
それは第一に脳である。ヒトがヒトとなった由来である大脳新皮質の拡大。生きていくだけなら必ずしも必要とはいえないその余剰。これが豊かなものをたくさん使うことは格好よく「人間が」感じる理由だろう。
脳はたくさん余っている。それは一貫してより多く使われてきている。人類の歴史とはこの脳をどれだけどのように使うかという歴史でもある。


このように「ヒトの活動を脳と呼ばれる器官の法則性という観点から全般的に眺めよう」という立場が養老先生の『唯脳論』なわけなのである。以下その序文。

現代とは、要するに脳の時代である。情報化社会とはすなわち、社会がほとんど脳そのものになったことを意味している。脳は、典型的な情報器官だからである。
都会とは、要するに脳の産物である。あらゆる人工物は、脳機能の表出、つまり脳の産物に他ならない。都会では、人工物以外のものを見かけることは困難である。そこでは自然、すなわち植物や地面ですら、人為的に、すなわち脳によって、配置される。我々の遠い祖先は、自然の洞窟に住んでいた。まさしく「自然の中に」住んでいたわけだが、現代人はいわば脳の中に住む。
〜中略〜
現代人は、脳の中に住むという意味でいわばお伽噺の世界に住んでいると言っていい。かつて脳の中に住むのは夢想家だけだったが、今ではすべての人が夢想家になったのである。

これほどわかりやすい「要するに」もないではないか。要するにすべては「脳」なのである。
「お伽噺」という形容が選択されていることに注目したい。蝕後の『ベルセルク』のモチーフがまさに、お伽噺の世界が現実へ浸潤していく、という話。主人公のガッツが片目片手の不具者であるのは自然の象徴たる「身体」を強調したものであり、脳と身体を巡る話として『唯脳論』を思い起こさせる。


「蝕」がいつ起きたのか知らないが、もう世はお伽噺の世界である。AR(拡張現実)技術は我々に妖精の姿を垣間見せる。斎藤環に言わせれば「携帯電話で話す人」は「宇宙人と交信してる人」と見分けがつかない。現代の技術革新は、ぼくらを妖精が見えたり宇宙人と交信しちゃう人、に追いやっている。もはやいじめっ子を龍が撃退する、なんてことが起こったって驚きはしないだろう。
幻覚や幻聴とはある個人の脳内でのみ成立しているある過程。それが他人と共有可能ならばもはや定義により幻覚とは言えないが、相変わらず「世界」の側にそれに対応した実体、があるわけでもない。
拡張しているのは「脳」だ。いやネアンデルタール人の後、人類は数万年このかた身体的には変化していないらしい。ということは脳の拡大が起こっているのではなく、そのスケールに合った表出が行われている、という方が正確である。



新たなフロンティア

過去に起こったパラダイムシフトを考えてみても、それが同時に「新たなフロンティアの発見」であることは明白である。
農業革命は「不毛の平野」を「豊穣の地」に変えた。
産業革命は「辺境の田舎町」を莫大な利益をもたらす「植民地」として見出した。
生物における進化というのも、一般に住環境の変化を伴うことが多い。住むところが変われば身体的形質も変わらざるをえない。
人類に関して言えば数万年ぐらいは身体的には見るべき変化がないわけだから、不毛の平野を豊穣の地へという変化は、身体でなく脳の結合の仕方を、すなわち価値観を変えている。


「空間と時間の制約を受けない」ネットは我々の新たなフロンティアとして最有力候補である。そこはまさしくお伽噺の世界、阿弥陀仏のいるという西方浄土であるに違いない。
そして要するにそこは脳なのである。今も昔も変わらず。
今や我々は脳に住む幽霊と化している。そこに身体は存在しない。
「ガッツ」を除けば。



神は詳細に宿る

ここまで来て虚構という言葉で指し示したい「結婚というシステム」がすなわち「脳のシステム」であることが分かる。
http://d.hatena.ne.jp/santaro_y/20060816/p1
今見つからないが、ここで引用しているゲーム世界のリアリティ、すなわちジャンプに失敗して思わず十字キーを逆に入れた時、画面の中のマリオが空中で方向を変えてくれた気持ちよさ。これが脳の目指す幸福の原点。


養老先生は自然を「脳が作らなかったもの」と定義する。脳が作ったもの=人工物に囲まれて暮らしているわけだが、しかし臓器としての脳もまた脳が作らなかったもの=自然である。それなら究極的には脳もまた自然を作ることを目指すのではないだろうか。(予定説)
別なところではこうもおっしゃっている。
人工物には詳細がない。だからこそ詳細に神は宿るのだ、と。
これは宿題である。我々は最終的には「詳細」を作り出すだろう。しかしそれが何を意味するかは今のところ分からない。


宿題ついでにもう一つ。それはもはや世界に唯一遺された身体、とも言える「中国」の存在である。
かの国が保存しているあの野蛮さ。あれは存外、「水面に映りし影ではなく 水面を波立たせる魚やもしれぬ。」