大東亜共栄圏再び

 では私たちは「それぞれが独自の価値観を持つ、複数の組織」といかに付き合うことになるのでしょうか?
 こういった特殊な価値観のグループは、それぞれが無関係に「独立して存在している」というわけではありません。何度も説明したように、実際には一人の人がいくつも掛け持ちしているのです。一つの価値体系はそれなりに完成したモノなので、掛け持ちするという事は、矛盾した価値観を合わせ持つ、ということになります。
 〜中略〜
 こう考えるとわかるとおり、基本的に一つの価値観は他の価値観を許容しません。そのため本来は一つだけの価値観で人生のあらゆる事柄を決め、統一するべきなのですが、実際問題として、それでは人生があまりにも幸せとかけ離れたものになってしまいます。自分が大変な変人になってしまい、ふつうの社会生活すら難しくなっていきます。アニメファンでもおいしい物は食べたいし、エコロジストでもTVで野球を見ながらビールを飲みたいのは当たり前です。
〜中略〜
また、複数の価値観といっても、それぞれに対してそれなりに賛同していなければなりませんし、まったくメチャクチャでいいと言うわけでもありません。
 それは自分の部屋のインテリアを考えたり、カラーコーディネイトするようなものです。「基本はナチュラルカラー、アーリーアメリカンのテイストを少しいれて」とか「モノトーンを基本にテクノな感じ、ポイントは銀で」といったコーディネイトが大切なわけです。何もかも白だけの部屋では落ちつかないのと同様、たった一つの価値観ではやっていけないわけですね。
 自分の部屋は空間をコーディネイトすることですが、自分の人生は時間をコーディネイトすることです。

http://netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/bokusen/senno4.html

引用は『ぼくたちの洗脳社会』において岡田斗司夫が提示した未来の価値観のありよう。
矛盾した価値観を合わせ持ち、それらを適切に配置、コーディネートするものとは誰か。
日本人のことである。
誕生を神道で祝い、結婚をキリスト教で誓い、死を仏教で悼む日本人以外の何物でもない。
この話は未来の話としてではなく日本人論として聞いた方がよっぽどしっくりくる。
これはどういうわけなのか。
もちろんここでは岡田斗司夫の予測を基本的に正しいものとして話を進める。

それはそれ、これはこれ志向

戦時中日本人の捕虜を前に米兵がダーウィニズムを講義する、というエピソードを山本七平が書いている。天皇を神だなどと信じる野蛮で無知な日本人をからかってやろうというわけだ。
しかしその日本人捕虜はダーウィンの進化論など学校で習って知っていた。人間が猿から進化したことを知っていて、しかし同時に天皇がカミであることも受け入れている。
戦時中は日本の歴史上でも価値観が一色に染められた狂信的な暗黒時代と見なされているが、その時代にしてこれなのである。天皇を神だと教える一方で進化論を教えてしまう。そのことに誰も疑問を感じないし、教わってる方も特に矛盾を感じない。米兵からすればわけがわからないのだろう。


このような日本人の性質はどこからきているか。
近くは関ヶ原の戦いにおける徳川(東軍)と豊臣(西軍)の成り行き、古くは蘇我氏(仏教)と物部氏神道)の成り行き。、天下を分けるような戦いに勝っても相手(価値観)を完全に滅ぼすということをしない。外様大名は残り、神道も滅びなかった。
こういった性質の由来は結局神話にまで遡る。天津神に敗れた国津神の代表たる大国主命は、創建時最も高い建築物だったと言われる出雲大社に祀られ「幽事」の支配者となり、今にまで伝わっている。
井沢元彦によればこれは怨霊信仰が原因とされているが、それが今にまで継承されてきたその最も大きな理由は日本語にある。本来何の共通点も持たない二つの言語、漢語と大和言葉の融合によってできた日本語こそ、我々に価値相対主義的傾向を一貫してもたらしている原因だ。結局我々は言葉でモノを考えるほかなく、その言葉自体が持っている主義傾向から逃れることはできない。
いや「価値相対主義」とはちょっと違うそれを、ここでは神話に倣って「それはそれ、これはこれ志向」と呼ぶことにする。天津神は顕事(この世)国津神は幽事(あの世)というように価値観を否定しないだけでなく「適切に配置」することを目指す日本的価値観である。
誕生を神道で祝い、結婚をキリスト教で誓い、死を仏教で悼む。それぞれ一貫した思想を持つ宗教も我々の人生の節目にただ「適切に」配置されるのみ。

日本的価値観の世界化

岡田斗司夫は『ぼくたちの洗脳社会』の中で「ダーウィニズムなんて近代になってメジャーになった価値観の一つに過ぎない」としながら、一方で進歩主義史観で「世界史」の転換を語る。これはもちろん話を分かりやすくするための便宜的なものだ。
問題は近代化の過程というのが同時に西欧ローカル思想の世界化であった、という点である。「世界史」のように語られる西欧人の歴史もある時点までは全然「世界」の名に値しない田舎の小競り合いに過ぎない。近代化の成功によって西欧の歴史は我々にとって重要度を増した。西欧の歴史が世界史のように見えるのはその「価値の大きさ」からくる錯覚である。


さて何が言いたいかというと、もし岡田斗司夫の予測が正しいとしたら、そしてそこで予測された未来の価値観が日本人の価値観に他ならないのだとしたら、その予測はこう解釈するしかない。

  • 第三の波情報革命によるパラダイムシフトとは日本的価値観の世界化の過程である

信じられるかは分からないが、素直に読めばそう言っているに等しい。
そんなことがありえるか。あるいはいかにしてそんなことが可能か。
おれにも分からない。が、分からないなりに考えてみるにヒントになりそうなのは言語である。上に記したように日本的価値観とは突き詰めれば「日本語」に行き着く。日本語でモノを考えるやつは不可避的に日本的価値観を担う。
例えばプログラミング言語。元々英語圏で誕生したコンピュータは英語でプログラムが書かれ、ゆえに英語的価値観を帯びる。今は日本語のプログラミング言語というのもあるようだが、別に何語で書こうとできた製品に違いはないかもしれない。が「書く方の意識」は間違いなく変わる。
ネットの世界を形作っているのがプログラマであり、彼らが英語圏の引力に引っ張られている現状を考えるに、これが日本語に置き換わったらこれは「日本的価値観の世界化」と言っていい事態だと思う。まぁそんな可能性はほとんどないかもしれないが、ありえるとしたら例えばこういう形。


いかにして、はともかくとして日本は野望を隠し持っている国だと思う。