閑さや岩にしみ入る蝉の声




『ぼくたちの洗脳社会』の続編は結局書かれなかった。文庫本の裏表紙で自信ありげに予告されているのを見つけて以来、ずっと頭の隅に残っていた「それ」を誰も書いてくれない以上、自分で書いてみることにする。
「それ」をとりあえず「虚構浄土」と命名した。これは岡田斗司夫はおそらく関係ない、自分の中でできあがってきたイメージの話になると思う。この本で示された予測や見解を基本的に正しいとした上での、その向こう側にちらちらほの見えるイメージの話。

『ぼくたちの洗脳社会』は序章だった

この本は最も重要なことに触れずに終わってしまった。
まず「第一の波『農業革命』、第二の波『産業革命』、そして現在起こりつつある第三の波『情報革命』によってすべては変化する」という未来学者アルビン・トフラーの予言。
それを受けての堺屋太一による「豊かなものをたくさん使うことは格好よく、不足しているものを大切にすることは美しいと感じる、人間のやさしい情知」をもとにした「モノ不足、時間余りの時代」への移行と価値観の変化。
そしてこの二つをもとに岡田斗司夫が提示した未来『僕たちの洗脳社会』。インターネットをはじめとするマルチメディアの技術革新がもたらす、情報ではなくそれへの解釈(世界観)が無限に流通する世界、における人々の価値観のありよう。
この中で岡田斗司夫は主に西欧の歴史の転換を踏まえながら、かつて神が信じられなくなったように、科学が幸福をもたらしてくれるとは信じられなくなった現代人の苦悩を書いている。これが我々に大きな価値観の転換を促している要因ともされているのだが、さて岡田斗司夫が書けなかった最も重要なこととは

  • 「神」「科学」に変わって我々を幸福にしてくれる、と信じられようとしているものは何か。

である。この問いにはっきりと答えられていない。何度もパラダイムシフトによる人々の価値観変化の重要性を指摘していながら、その新たな価値観の土台となるべき要の部分、すなわち何が我々を幸福にしてくれるのか、何を信じようとしているか、への解答は巧妙に避けている。あるいは暗示するに留めている。
その代わりに提示しているのが「自分の気持ち至上主義」だ。今の若者は自分の気持ちを大切にしていて、だから他人の価値観も安易に否定せずこれが未来の価値観云々・・・。
まったく納得できない。他に信じられるものがないから自分の気持ちを信じる。コギトエルゴスムである。未来の世界とは一億総デカルトになるのか、といえばそんなわけないのだ。つまりこれは価値観変化の「過渡期」の心情を説明しているにすぎない。
続編はこの解答をきっちり示すものになるはずだったと思う。

我々を幸福にしてくれるかもしれない「虚構」

岡田斗司夫の話はとにかく単純明快、具体的で分かりやすい。この本の中でも色々な具体例を示して語るわけだが、その例というのがアニメにはまるオタクであり、オカルトであり、ディズニーランドなのである。
はっきりとは言わないけどもこういったものを通じて暗示はしている。
共通点は「虚構」である。「神」「科学」の次にくるものとして我々が信じようとしている「虚構」。
とりあえず言葉のレベルは合っていると思う。しかし問題は山積みだ。
まずそもそも虚構を信じるとはどういうことか。


「結婚詐欺に引っ掛かった女」を想定してみよう。
彼女は何を信じたのだろうか。言葉巧みな詐欺師を信じて大金を失ったのか? 
表面的にはそうだが、経緯はちょっと複雑だ。
まず「結婚が私(女)を幸福にしてくれる」という社会的価値観が前提としてある。そしてそれを推進する恋愛映画であったりの文化的後押し等によって生じる、現実と遊離した結婚への幻想。その現実との落差。これが結婚詐欺師という職業?が成立するための条件である。彼はこの幻想に息を吹き込み膨らまし、リアリティを与えればよい。
つまり彼女は結婚というシステムをこそまず信じていた。それが自分を幸福にしてくれることを。それを買う為(失わない為)に大金を差し出したのだ。


虚構を信じる、といってもそれはアニメやゲームに嵌まる人がそのアニメなりゲームの世界を信じる、という意味ではない。そもそも「虚構」を「信じる」なんて語義矛盾である。
従って虚構という言葉で指し示したいのは、アニメやゲームなどの具体的対象ではなく「結婚詐欺に引っ掛かった女」における結婚というシステムの方にある。


親鸞の冒険

日本で仏教は特異な発展を遂げた。
他の仏教国からはもはや仏教ではない、と言われたりするが、その大きな理由の一つが肉食妻帯。
明治維新を待つまでもなく、最初に公然とこれを行った僧侶が浄土真宗の宗祖、親鸞であるとされる。
元々日本に伝わったのは中国由来の大乗仏教。本来厳しい修行の末に悟りを得る方法論であったはずの仏教(小乗仏教)だが、そもそも厳しい修行に身を投じられる人間など限られる。乞食するにも、きちんと仕事して施してくれる人間がいなきゃ成り立たないわけだ。そこで悟りを得るヒマも才能もない一般衆生を救うために「自分のみならず他の人々をも救う力を持った偉大な仏」の存在を創りだした。そのうちの一仏が浄土真宗の信仰する「阿弥陀仏」である。

梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。無明の現世をあまねく照らす光の仏にして、空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。西方にある極楽という仏国土(極楽浄土)を持つ(東方は薬師如来)。

阿弥陀如来 - Wikipedia

親鸞といえば有名なのが悪人正機説「善人でさえ極楽往生できるのだから、悪人はいうにおよばない」というあれ。ここでいう悪人とは賄賂を貰ってウッヘッヘッと笑う人ではおそらくない。そうではなくてなかば必然的に悪とされていることを為さねばならなかった人のことだと思われる。これはぼくらがよく慣れ親しんでいる「あれ」だ。凶悪な犯罪が起こった時なんかに犯人の生い立ちなり、家庭環境なりに原因を求めるあの思考様式のことだ。
善人が善人でいられるのはただ運が良かっただけで、悪を為さねばならないぐらい厳しい環境に身を置くものは真に思い悩むゆえ、あるいは悟りにより近いに違いない、、、と思ってたのかどうかは分からないが、とにかく親鸞の発想は非常に近代的だ。


浄土真宗といえば「南無阿弥陀仏」と唱える念仏。元々念仏とは「観想念仏」といって心に仏や極楽浄土を思い描く修行だった。平安時代にこれが流行って、簡単にそれを観想できるよう現実に作ってしまえ、と建てられたのがかの有名な平等院鳳凰堂。(虚構上のものを現実に建築してしまおうなんて発想がディズニーランド以前に存在した事実)
で、こういう大建築を行ったり知識を得ることが可能な貴族だけでなく、普通の人々でもできる修行として「称名念仏」つまり一心に南無阿弥陀仏と唱えればいいのだ、言いだしたのが親鸞の師匠である法然であるらしい。
親鸞は更にその先を行った。もはや念仏は修行ですらない。阿弥陀仏の救いを信じればもうその時点で極楽往生が決定しており、念仏はそれへの感謝の言葉なんだと。要するにご飯を食べるときぼくらが「いただきます」というあの挨拶程度の意味しかなくて、特にそれ以上厳しい修行なんかはする必要がないのだと。
ここまでくれば親鸞が仏教のタブー、肉食妻帯の禁を犯した理由も理解はできる。


なるほどこれはもはや仏教ではないかもしれない。しかしこの過剰な平等意識にはなじみがある。すでにこの時代に思索はここまで進んでいたのだ。男女平等やら貧乏人と金持ちの格差だとか、近代化によってもたらされたと思われている我々の意識も、実は日本の歴史の中で継承されてきたものを由来としている。だから日本の平等に関する考え方は欧米には質的に違ったものと映る。
同時代のアメリカ人の考え方より千年前の親鸞のほうがずっと理解がたやすい。同じ日本人であるから当然だろうか? しかしその間には産業革命というパラダイムシフトによって大きな価値観の断絶が起こっているという。
なるほど信じる対象はかわったのかもしれない。
しかし信じる対象への「様式」はそれほど変わっているようには見えない。