社会を支える「固定点」

前回の続き・・・


新聞は固定している・・・案外この事はよく認識されていない事実であるように思う。というのはフローな話ここで言った〈ストック−フロー〉概念でいうと新聞はニュースを扱っておりゆえに昨日の新聞は誰も読まない、事からフロー性の高いものであるという認識が一般にあるからだと思う。そして実際新聞はどんどん消費されどんどん捨てられていく・・・。
だが本来新聞はフローなものではない。それは例えば国会図書館などにきちんとストックされており、昨日の新聞にニュースとしての価値はなくとも10年前の新聞ならそれは歴史的資料として立派な価値になる。そして紙という形式に固定化されておりその内容は決して変わる事がない。にもかかわらずいったいなぜそれはフローなものという感覚で受け止められているのだろうか?


【新聞はパラパラ漫画】
それは多分、新聞には社会という常に動いている「実体」を表す鏡としての機能があるせいである。この本質的に動いていて止めようのない「実体」を固定化した「情報」によっていかにして表すか。それを表す為に新聞は「パラパラ漫画効果」をおそらく使っている。
新聞はまったく同じ形式のものが毎日同じところに同じように配達される。一日一枚(夕刊も取っていれば二枚)一年で365枚の(休刊日があるが)絵(文字)が連続する事によって動いているように見える、あるいは見せているのである。それによって実体としての社会を的確に(かどうかは異論もあるかもしれんが)表すことが出来ている。
この固定化しているものを連続して見せる事で動いているように見せる「パラパラ漫画効果」は何も新聞だけではなく映画だってテレビだってもちろんアニメだって基本的な原理は同じ。見た目、あるいは内容がいかにフローなものに見えたとしても本質的には止まっていて、だからこそそれらは何度も同じものが再生可能なのである。というわけでこの効果によって新聞は一見すると動いている、フローな印象になっているのだが・・・本質的にはそれは固定化したストックであり「情報」である。
だがこの「社会という実体を表す鏡」という見方は一面的な見方、機能でしかない。新聞そしてもう一つ特にテレビというメディアは特に日本においてはより重要な機能を果たしていると考えている。
それは社会を拠って立たせている「固定点」としての機能である。もちろん?この話も養老先生の『人間科学』から来ている。現在ようやく4分の3ぐらい。やはり誤解や誤読を含んでいる可能性が高いのでそれを踏まえてオレが考えた事として書いてみる。(というか勝手に考えた部分が多いのでその辺も踏まえて)




■社会を支える固定点
ここでいう社会を支える「固定点」とはおそらくは個体に対する「遺伝子」が隠喩となっているのだと思う。では遺伝子が個体に対して果たしている機能とはなんだろう?

  1. 部分の全体的な統一性
  2. 時間軸における同一性

それは上の二つに集約できると考えられる。
1の「全体的な統一性」とは個体にとって部分である細胞が集まって全体として機能するのを保障しているものとしての遺伝子、という事である。一つ一つの細胞が固定した同一の遺伝子を持っている、という事はすなわち情報の共有である。全ての細胞が同じ情報を共有している事によって全体の統一性は確保されている、と考えられる。
2の「時間軸における同一性」。これはフローな話でもちょっと書いたが個体の細胞は新陳代謝によって物質的にはどんどん入れ替わっている。人間の体でも一年経つと構成要素は分子レベルで殆ど入れ替わってしまうらしい。だからそういう意味でいうなら一年前のオレと現在のオレはほぼ別人だ。じゃあこの二人の同一性を担保するものは何かというなら最終的にはそれは遺伝子である。細胞それ自体は何度も生まれ変わり死に変わるが、それが「同じ」遺伝子によって作られ、そして「同じ」機能を担い続ける事によって個体の時間軸における同一性を担保している、と考えられるわけだ。
これが遺伝子の個体に対する基本的な機能としての二つの軸であると思われ、そして「社会に対する固定点」というものが意味する内容でもある。そしてこの社会に対する固定点の典型と考えられているのが例えば西洋社会における「聖書」である。


【固定点としての聖書】
聖書(新約)は少なくともそれが成立してから(紀元393年らしい。詳しくはこの辺)内容の変わっていない(おそらくは変えてはいけない)文字「情報」である。それは西洋社会において社会の基本的な規定、土台であり全体的統一性、時間軸における同一性を担保しており、「固定点」として極めて優れた機能を担っていると考えられる。特にそれが「文字情報」である点で遺伝子のアナロジーとしても分かりやすい。もちろん聖書には様々な「解釈」がある。だが解釈とは生きているシステムとしての「実体」の属性であり、だからそれは社会の変化と共に変わってもいい。だが聖書自体は変えてはいけない。それは社会の強力な固定点として認識されているからだろう。


【固定点としての建造物】
ある種の建造物にも固定点として認識されているものがあるように思う。例えば、
エジプトにおけるピラミッド。
アメリカにおける自由の女神
日本における富士山。
これらのものは「視覚情報」としてやはり社会の固定点、特にある社会の時間軸における同一性を担保する役割をしているように思われる。その事は例えば次のように言い換えが可能である点で明らかであると思う。
ピラミッドのあるところがエジプト。
自由の女神のあるところがアメリカ。
富士山のあるところが日本。
こういった言い方に違和感がなければそれは固定点として認識されていると考えていいと思う。それらがもし何らかの理由で、例えば他国に占領されその社会から切り離されてしまえば、ドラえもんの声優が大山のぶ代でなくなってしまったのと同じか、それ以上の違和感、喪失感にみまわれるのではないだろうか?
つまりはこんなのドラえもんじゃない、と言われるに違いない。


【固定点としての人間】
かつての(今でも?)王族、そしてその究極としての日本の天皇は社会の全体的統一性、時間軸における同一性を担保する固定点としての「人」であると考えられる。こういうふうに社会の最高位としての位が血によって継承されている(いた)事は現代では科学的根拠もありその意味は自明であると思われる。すなわち社会の固定点としての「遺伝子」である。
ここにおいてもはやこの「社会に対する固定点」を「個体に対する遺伝子」として考える事はアナロジーですらなくなる。
部分が全体を現すものとしての遺伝子。
個体だけでなく社会を支えうる遺伝子。
万世一系」という物語に支えられた天皇制はあらゆる固定点の中でも特に興味深い。社会のシステムとして実は、ひょっとすると一番理に適っている・・・のかもしれない。




以上が社会における固定点というもののおおよその概要。というとこで固定点としてのメディアの機能はまた次回という事で・・・。(最近なんか続けてばっかりだな〜。中々まとまらず。あしからず)