変化するブログ、固定化している新聞

前回までで〈情報−実体〉概念のおおよその内容、メディアとは何か?の大体の見なしが把握できたように思う。(オレが笑)
で、ここからようやく〈新聞(情報)−ブログ(実体)〉というこの一連の記事の本来のテーマに突っ込んでいきたい。




オレが「ブログは(ネットは)実体である」と言う時そこでは「新聞(既存メディア)は情報である」という前提がある。なのでまずなぜ既存メディア、中でも特に新聞が固定化された「情報」と考えられるのかというとこから。
まずいわゆる既存メディアとしては4大メディアといわれる、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌がある。これらのいわゆるメディアとネットの違い、特にここでの〈情報−実体〉概念にとっての重要な違いとは「言ったら(書いたら)終わり」という点である。
テレビやラジオはそれを一旦流してしまえばその時点でもはや内容の修正はけっしてできない。新聞、雑誌も同様で(”証拠”が残りやすいのでなおさら)雑誌では問題があって「回収」される事はあるけども内容を修正する事が出来るわけではない。この点がネットと比較する上での最も重要なポイントだと考える。
しかしこの事はあまりにも当たり前であったがゆえにそれほど意識化される事がなかった点でもあり、むしろネットの登場によってその事の「意味」が浮かび上がってくる(きた)のではないかと思われる。少なくともオレ自身ネット、ブログの意義を考える過程でその重要性が分かってきた。
例えばテレビ、ラジオにおいてはそれをビデオテープへ録画、カセットテープに録音するなりすればそれは10年経っても内容は変わらず同じ「情報」である。特にここで重要なのはある番組について、オレが録ったものと他の人が録ったものとが画質などはともかくとして「同じ内容」である点である。
そして新聞、雑誌のいわゆる紙媒体においてはそもそもテレビなどのように別な形式、記録媒体に変換する必要さえない。それはそのまま記録媒体であり、とっておきさえすれば、劣化する事はあっても内容が変化する事はない。固定化という視点から見ると紙媒体は電波よりも優秀であると言える。
ではネット、ブログはどうだろうか?
おおよそネットの世界におけるあらゆるコンテンツはその内容を変更、修正できる人間が必ず一人は存在する。訂正や追加ではなく修正、内容自体の変更が常に可能なのである。少なくともそれがネットの中に存在する限りにおいては。
最も可能ではあってもできない、という事情はあるかもしれない。例えばメーリングリストと言われるものは一旦発信してしまうと少なくとも発信した人が発信された内容を変える事はもはやできない。(しかしそれがネットの世界にあれば、優秀なハッカーならできるのかもしれない。その辺詳しくないので分からんのだけど)
しかしこれも例えば10年後に同じ事は言えるのだろうか?はっきり言って相当アヤシイ。この感覚、不信の根拠はそもそもデジタルなデータ一般に対してオレが(おそらくは多くの人も)感じているものである。それはいくらでも変えてしまえるし、基本的にはその証拠も残らない可能性大なのである。特に長期的スパンで考えるとそこにどの程度の「信頼」が置けるのだろうか?(その点新聞の紙が「ある程度劣化する」というのは年輪、時間を表している点で興味深い。これはどれだけ時間が経っているか、という「情報」になりうるのだから・・・)
つまりはネットの世界にあるものは外部世界への何らかのアウトプット無くして本質的に固定化せず、常に内容自体が変化する可能性を秘めており、よって社会の基底を支えるに足るような信頼は勝ち得ない、とオレは考えているのである。(「個人的」な信頼ではない)




【違うものを見ている】
で、ブログというものをこの「社会的信頼」という観点から考えると事情はよりはっきりしてくる。
例えば当ブログのこの記事は果たしてどの位の人に読まれているのか、カウンターも設置してないのでよく分からないが例えば10人読んでいるとする。そこで問題としたいのは、
果たしてこの10人は「同じ」記事を読んでいるのか?
という事である。
ブログにおいてコメント欄やトラックバックは記事の内であると思う。それによって情報量が増えたり意味付けが変わったりの変化をしていく事がブログの面白いところだと思っている。だがこの事は逆に言えばいつそれを読むか、によって見ている人が違うものを読んでいるという事(あるいはその可能性)も同時に表している。ここが既存メディアとの極めて重要な違いなのだ。
固定化された全く同じ情報であっても見る人によって解釈は様々。この事はそれこそブログの登場によってより理解されてきている事ではないかと思う。ブログは情報ではなくその解釈が無限に溢れる世界なのだ。更にはクオリア問題というものもある。これは主観的な経験は他者と同じかどうかを確認する事ができないという哲学的な問題である。(詳しくはkenmogi
いずれにせよはっきりしている事は人は同じものを見ていたとしてもそこから受け取るものはそれこそ十人十色で人によって全く違う、という事実である。それでも我々が他者とある程度以上のコミュニケーションを図る事ができるのはこの「同じものを見ている」という事に対するある種絶対的な「信頼」によっているのではないかと思われるのだ。そう考えると果たしてブログの「見ている人(時期)によってそもそも見ている情報の内容が違う可能性」というものの意味する事は重大である。つまりそれまで当たり前であった前提が成り立たなくなってしまうという事になるのではないだろうか?


そう考えると例えばブログにおいて、無関係なスパムと言われるものはともかくとして批判や中傷であってもコメントやトラバを削除してはならない、というのがモラルとなっている事の別な意味が見えてくる。普通この事は双方向のメディアとしての意義、という視点から論じられる事が多い。だがおそらくもう一つの重要な側面はそれをしてしまうと「同じものを見る事」が二度とできなくなってしまうから、なのではないだろうか?
最初に投稿された時点の記事を見たA、批判コメントをしたB、それを見たC、そのコメントが削除された記事を見たD。D以降に見た人はその批判コメントの事を知る事ができない。・・・かというと改めてBやCがそれについて文句をつけるなり、コピペするなりすれば知る事ができるかもしれない。と、こうなってしまうと同じ記事、内容を見ているという意味での読者間の暗黙の前提としての信頼が成り立たなくなってしまう。その事に対する「不安」がこのモラルのもう一つの根拠なのではないかと考えられる。そういう視点で見ると例えば次のmakiさん文章の意味もよく分かる。

santaro_y氏は『フローな話』で一番重要なのはブログの記事は後からいくらでも修正、変更が可能である点と述べているが、引用されたエントリが修正されると混乱を招く。間違っていたとしても(間違っているという補足を追加するのはよいと思うが)基本的に大意を変える修正はしない方がよいと個人的には思っている。個々のエントリを修正しなくとも、全体としての解は得られるのではないか、というかむしろ、それによってしか解は得られないのではないか、という感じがしている

オレも基本的には全く同感である。滅多やたらに修正しない方がいいとは思う。しかしそもそも修正する動機が強い時はそこに何らかの「問題」がある場合が多い。そうだとすると「しない」という事と「出来る」という事の違いはとてつもなく大きい。あくまでも既存メディアと比べるのならば、なのだけども。
そして記事の内容も修正や削除は色々問題はあっても「追加」なら殆ど問題にならないという事の意味もこれでよく分かると思う。コメントやトラバも基本的には追加だと考える事ができるが、既存メディアだって見方を変えれば常に追加し続けている、という風にも捉えられるのだから。だが果たしてこのモラル、常識はブログというメディアにとって適切なものかどうか、に関してはかなり疑問の余地がある。それはひょっとすると既存メディアによって慣らされただけの古い習慣、感覚であるかもしれないからだ。これが今後もブログ界で成り立ち続けるのかはまだ謎であると思う。


とここまでの話は一見するとネットやブログがいかに信用ならないか、という批判と思われてしまうかもしれないが、これはあくまでその特性でありブログの意義や方向性を考える上での基本的な前提になるものとして書いている。少なくともこういった特性は既存メディアにはない全く新しい点である・・・がゆえに実はあまりにも当たり前過ぎて見過ごされがちな既存メディアの意義も同時に理解されるのではないだろうか。特に変化するブログ、という視点からすると新聞はおおよそ既存メディアの中でも特に固定化の強いものであると思われる点で最も重要である。


では固定化しているがゆえの新聞の意義とは・・・というとこで次回に続く・・・