固定点としての既存メディア

前回のつづき・・・


メディア探究−ブロガーよ、情報の司祭を打ち倒せ!
上の記事はブログの歴史的意義、その本質とは「宗教革命」である、いやもっというと宗教革命の本質とは「情報革命」である、という話。この話は岡田斗司夫著『ぼくたちの洗脳社会』ともかなり繋がっているもので(おそらく読んでいるのではないかと思う)大いに納得出来る。以下新聞およびテレビなどの既存メディアが、特に日本において社会を支える固定点として機能しているという話を書くが、それを理解する上での前提になっていると思う。




前回書いたように社会にはその全体的統一性、時間軸における同一性を担保する「固定点」がある。例えばその典型が聖書であり、ある種の建造物であり、そして場合によっては「人間」がそれを担う事もある。
だが近代において、そして特に日本において実際的にこの固定点としての機能を担っているのは新聞およびテレビのいわゆるメディアであったと思われる。(もう一つ「憲法」というのがあるのだけど・・・それは一先ず置いておきたい)


【固定点としての新聞】
とにかく日本の新聞は非常に特殊である。

  1. まずその圧倒的な発行部数。いわゆる全国紙と言われる読売、朝日、毎日がそのまま世界の三位までを占めるという異様さ。これは社会の構成員の多くが「同じものを見ている」という事。そしてそれは社会の全体的統一性を担保する機能を相当程度担っていると考えられる。
  2. 配達制度。おそらくその圧倒的な発行部数を支えているシステム。もちろんこれはたくさん売れるからこそ成り立っているのだろう。そしてこの制度によって、同じ形式のものが同じところに毎日配達され、それによって前回書いた「パラパラ漫画効果」を発揮しているという点でも非常に重要だと思う。
  3. 公正、中立という建て前。ホントに公正中立か?という事はここではどうでもいい。そういう建て前になっている、という事が重要。なぜならそれは本来的に「固定点」の属性であるからである。例えば司法、もっと言えば憲法はまさしく公正、中立でなければならない。でなければ当然問題になる。そういう意味では日本の新聞は「憲法の普及版」と考えていいと思っている。(あるいは憲法に基づいて社会事象の「解釈」をしている)
  4. 記事に記者の著名がない点。基本的に日本の新聞ではそれを書いた記者の著名がない。という事は建て前としてそれは個別の記者が書いたものではなく「社」が書いたものだと見なされる。という事は少なくともその新聞社が出来て以降、記事を書いている「主体」は「同じ」という建て前なのである。これが何を意味しているのか?要するに「時間軸における同一性」を担保していると考えられる。

以上の日本の新聞における特性はいずれも社会の固定点を担っている、あるいはそう認識されているがゆえの特性だと思われる。社会の構成員の多数が同じものを見ている(テレビ欄と地域のとこは違うけども)事は当然、全体的統一性を保障する上で重要だ。だから日本の新聞は解釈が多少違うにしても同じような内容なのである。何がニュースになるか、という基準に大した違いはない。この大して内容の違わない全国紙の発行部数を全部足せばどれだけの人が同じものを見ていると言えるのか。
パラパラ漫画効果によって動いている実体としての社会を表していても、それは本質的に止まっており一旦発行されれば内容の決して変わる事がない固定化した情報。ゆえにそれはそのままストックとして歴史的資料にもなりうる。
そして社という同一主体が書いている建て前、がある事によって歴史の連続、そして同一性を表してもいる。全国紙はどれも100年以上の歴史を持っているので、その位の期間は保障していると思う。この事は例えば朝日新聞にたいして戦前と戦後で思想的立場が180度変わってしまった事に対する批判がある、という事が逆説として証明しているように思う。当然同一主体と見なされているがゆえの批判なのである。
というわけで普通いわゆるメディアの固定点としての主な機能は「全体的統一性」の方だと思うが、新聞においては歴史的ストックである点、同一主体が書いているという建て前がある点、などから「時間軸における同一性」もある程度担保していると考えていいと思っている。


【固定点としてのテレビ】
テレビの固定点としての機能は新聞とは対照的にほぼ「全体的統一性」に絞られると思う。誰でも例えば学校などでみんなと同じテレビを見てないと話題に付いていけない、というような経験があるだろう。そしてテレビにおいてはそれを見る時間の一致、共時性というものがある事が興味深い。つまり同じ番組を見る事は情報の共有だけでなく、時間の共有も意味している。そしてこの事がおそらくはある瞬間の社会の全体性、もっと言えば一体感をより強くアピールするのではないかと考えられる。
だが逆に「時間軸における同一性」という視点でテレビを見ると、むしろテレビは同一性よりも「違い」を強く表すメディアである。
まず新聞と違い、テレビは局で見るよりも「番組」というコンテンツ単位で見ている。当然番組事に出演者も製作者も違う。そしてそれは基本的にはある程度の期間で「終わって」しまう。そうするとどうなるか。世代によって見ているものが違う、という事になる。テレビの話題というのは大概同年代で共有され、逆に世代間では違いを強調する事が多い。従ってテレビにおいては社会の時間軸における同一性を担保するどころかむしろ阻害していると言える。
と言ってもここでは民放とNHKは分けて考える必要があるように思う。というのはNHKは唯一

  • 公正中立を建て前としている点
  • 民放各局が実は地域によって内容が違うのに対して全国どこでも同じである点
  • 番組ごとというよりまさしくNHKという同一主体が製作していると認識されている点

から極めて新聞に近い性質を持っていると考えられるからだ。そういうわけで一応NHKはカッコで括った上での話ではあるが、テレビはあくまで瞬間的な一体感によって全体的統一性を担保するメディア、と考えられると思う。






以上メディアの固定点としての機能について考えたが、これは半分位はすでに過去の話でもある。最初に紹介したメディア探究さんの記事でいうなら現在は「情報革命」すなわち「宗教革命」の時代であり、それは実は社会の固定点が変化する時代という意味でもあるからだ。これに関しては前に「ぱちもん」心理学研究所⑤ - ぶろしき「ぱちもん」心理学研究所⑥ - ぶろしきこの辺で岡田斗司夫著『ぼくたちの洗脳社会』に絡めて書いた。社会の基本的な価値観、世界観の変化すなわちパラダイムシフトというのもつまりはこの固定点の変更を指し示していると言っていい。個体を支える遺伝子の変更がすなわち世代の交代、を意味しているのと基本的には同じである。
そして実はだからこそ今天皇が論じられ、憲法改正が叫ばれ、そして新聞(既存メディア)の危機が言われているのだと思っている。これら三つのもの天皇憲法、新聞を日本社会をよって立たせている特に重要な固定点として「日本三大固定点」と命名する。(勝手に)
前回天皇、今回新聞を論じたのでホントは憲法についても書くべきだと思うが、とりあえずこれについてはちょっと前まで「憲法改正絶対反対」という左翼の主張が強かった事、つまり内容を変えてはいけない聖書のようなものとして認識されていた事を指摘しておきたい。つまり左翼とは憲法に対するファンダメンタリストだったのだ。
・・・とまぁそれはともかくとして。
この情報革命、パラダイムシフトにインターネットというものが大きな鍵を握っているのは間違いない。中でもブログというものが特に新聞などの既存メディアに与える影響も大きいだろう。だがこのネットと既存メディア、ブログと新聞の関係性を考える上で最も重要なポイントになるのは、
ネットそれ自体が固定点を担うのではない
という点である。というより現状ではおよそこの点が殆ど考慮されていないようなので、だからここまで延々論じてきたのである。
上に書いた既存メディア、特に新聞とテレビが担っている「全体的統一性」「時間軸における同一性」を担保する固定点としての機能。これをネットについて考えてみると・・・

  • ネットの世界のあらゆるコンテンツは内容自体を変更できる人間が必ず一人は存在する。この内容自体が変化するもの、はおよそ固定点とはなりえない。特にブログにおいてはコメントやトラックバックで作者以外の人も追加というかたちでの変更ができる。そこでは「同じものを見ている」という読者間の暗黙の前提も基本的に成り立たない。従って時間軸における同一性を担保しそうにない。
  • ネットの世界においては生産者と消費者の間に明確な線引きはない。誰もが消費者であると同時に生産者になり得る。がゆえに常にコンテンツは膨大。従って多くの人が同じものを見るという状況にもなりそうにない。少なくとも新聞、テレビと比較すれば圧倒的に少ないだろう。従って全体的統一性も担保しそうにない。
  • 更には公正中立という建て前がブログにおいて成り立つかというなら独断と偏見です、というしかないと思う。(最も誠実です、と言いたい気持ちはあるけど笑)

さぁどうだろうか?およそ固定点という視点から見るとネットは殆ど逆方向のベクトルを持っていると考えられるのではないだろうか?
すなわち遺伝子ではなく細胞、言葉ではなく脳、情報ではなく実体。そうネットとは固定した情報属性ではなく常に変化する実体属性なのである。そして実はそこが革命的なところなのだ。既存メディアは全て固定した情報と見なされ、ゆえに社会を支える固定点としての機能を担ってきた。が、ネットとはそういう既存メディアに対するメディア、メタメディアであり、歴史上初めて登場した常に変化する実体としてのメディア、言葉の本来の意味におけるメディア(媒体)、つまりは・・・


「生きているメディア」


なのではないだろうか?
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フ〜、6回目にしてやっとシリーズタイトルに繋がった・・・。




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5/13追加http://cityscape.air-nifty.com/cityscape_blog/2004/05/post_7.html