ネットは新聞を生み出すのか

ちょっと前にネットは新聞を殺すのかblogの湯川さんとhttp://kiri.jblog.org/切込隊長との間でネットと新聞の関係性に関する議論があった。ウェブログ図書館のブログ記事群でもまとめられている。
ウェブログ図書館−ブログ記事群:日本でネットとリアルの社会が分断されている理由
この中では特に最後の切込隊長による

が非常に興味深い。
>私の主張は主に既存メディアとネットの機能面での違いに着目して行っている。
と言っているようにやはり機能的違いが重要であると考えているからだろう。
しかしネット(ブログ)と新聞は融合するという湯川さんのイメージの方にここでは一票を入れたい。というかそういう結論になりそう。つまりは新聞とブログは二つで一つのシステムになる、という意味で融合するのではないかと考えている。




前回の結論は『ネットはそれ自体が社会を支える固定点とはならない』というものだった。現在はパラダイムシフトすなわち既存固定点の変革期にあたり、その鍵を握っているのがネットであると思われる。しかしネットそれ自体は固定点とはなりえない。
ネットそしてブログは常に変化する、あるいはその可能性のある「実体」属性である。一方既存メディアは一見動いているように見えたとしても本質的には止まっており内容の変化しない固定化した「情報」属性。ゆえに社会を支える固定点となりえた。特に新聞というメディアにその性質は強い。
では今後のブログと新聞の関係性をこの固定点という視点で考えるとどうなるだろうか?
オレが最も有効なアプローチになるものとして考えているのは

  • ネット(ブログ)は固定点としての「新聞」を生み出すのか

というものである。
湯川さんのブログのタイトルでもある「ネットは新聞を殺すのか」というのはあくまで過渡期における一時的な現象であり、長期的に見れば新聞というメディアの価値とその意義は今後むしろ高まるのではないかと考えられる。それはなぜか?
まずおよそ日本における新聞は固定点を担うメディアとして殆ど究極的に進化した形態ではないかと思われる点。それは前回書いた。ではなぜそういう特異な進化を遂げたのか。その理由として考えられるのは第一に聖書(明文化された絶対的固定点)無き国である事、第二に日本人の全体的共同体意識の高さとそれへの希求、の二つを一先ず上げておきたい。そしてもし仮にそうだとしてもこういった条件自体はおそらく変わらないだろうと思っている。(というよりなぜ聖書がないか、なぜ共同体意識が高いか、というとこにはとてもじゃないが踏み込めないので)
で、ここで問題としたいのは新聞あるいはNHKが公正中立を建て前としているその根拠である。前回言ったようにこの公正中立は固定点の性質であり、そして実際問題これらのメディアは固定点を担ってもいた。だが果たしてこの公正中立は何によって担保されているのか、いやそもそもいわゆるマスメディアが第四の権力となってある程度固定点を担っている事自体、そこには殆ど根拠はないのではないか。(それぞれは一企業でしかない)実は今までの状況の方がかなり不健全な形態であったと言えば言える。


そこでこの公正中立について考えてみる。それがいったい何によって担保されるのか、について。
日本に明文化された絶対的固定点はない。そういう意味では「原理的に正しい」というのが基本的に成り立たない。だからそれはあくまで暫定的な決定であり、公正中立についても事情は同じであると思う。そして公正中立とは言い換えれば「最も客観的な視点」という事だろう。従ってここでは「暫定的なしかし最も客観的な視点」とはどこにあるのか、というのが問題になる。
そう考えると新聞のように取材によって第一次情報を報じる「場」に公正中立、すなわち客観的視座を求めるのがそもそも誤りである、という事ができる。なぜなら客観とは「主観の総体」によってしか得られないはずだからだ。初めから客観的視点というのが存在するのではない。そこにあるのは記者の主観であり、一企業としての社の主観があるのみ。つまり主観と客観という軸で考えるなら第一次情報に近ければ近いほどそれは主観的である、と考えられる。
ではこの第一次情報が社会に報じられ、それがネットに載りブロガーの独断と偏見、すなわち主観によって様々に解釈されたその結果、その総体としての視点はどうだろう?記者の主観、社の主観、その受け手としての社会の個々の人々の主観、これらの総体によって「客観的視座」はようやく生成されうる、のではないか。それが暫定的なものであったとしても、ここにしか客観的すなわち公正中立の根拠はないのではないだろうか?
そしてそこで得られるあるいは生成されうる客観的視点というものが乗るメディアはおよそ社会の固定点を担うに最も相応しい「新聞」というメディアになるのではないかと思う。




というわけでこの経緯をこのシリーズの始めに出していた『新聞という形に「固定化」された「情報」はネットという「流動性」の高い「媒体(メディア)」に乗る事で伝わる』という結論と、生きているメディア② - ぶろしきここで書いた媒体4分類を踏まえて出した結論が・・・


翻訳(一次情報)○
 媒体(ブロガー)○
  受容(ブログ)●
   流通(グーグル・リンク・トラバなど)●
    翻訳(ブログ編集社)●
   媒体(インク)○
  受容(紙) ○
 流通(ブログ新聞)○ 
翻訳(一般読者、新聞社)○


というものだ。まぁ暫定的な結論としての予測、なのだけども・・・一応補足。
(1)
第一次情報を報じる既存の新聞を経済的に支えるのはブロガー。今最も新聞を批判的に見ているブロガーが支えるのである。信じがたいけどもそういう事になる。(まぁ予測なので)そのお金はもちろんブロガー新聞の収益による。それが第一次情報者に還元されるわけである。
(2)
最後の翻訳に新聞社があるが、基本的にこれは「循環」である。
ジャーナリズムとは何か?
オレはこれを「何が情報かを決める事」だと考えている。よく取材がなければジャーナリズムとは言えない、と言われるが何が社会にとって重要な情報かが分からなければ何を取材すればいいのか分からない。情報は無限に転がっている。社会に問題は山済みだ。その中で何が情報として重要なのか、どんな問題を優先的に報じるか、これを決めるのがジャーナリズムである、と思っている。そしてブロガー新聞はいわばこの取材の前提に影響を与えうる。むろん金銭的に支える事による影響もあり、つまりは口を出すが金も出す。
(3)
○=オフライン、●=オンラインを表している。
ブロガーを含めた
媒体(ブロガー)○
受容(ブログ)●
流通(グーグル・リンク・トラバ)●
翻訳(ブログ編集社)●
というシステム、要するにネットの世界はおよそ最もマクロな視点における「翻訳媒体」になると考えている。つまりそれは常に変化する実体属性の「脳」である。第一次情報(新聞)がインプットされ、第二次情報(ブログ新聞)がアウトプットされる。そこで「翻訳」がなされるわけだ。
何が翻訳されるのか?
その「情報」が社会にとってどんな意味を持ち、次に何が「情報」になるか、だろう。そしてそれが新聞社に還元されそこで初めて「公正中立」に根拠ができ、社会を支える固定点としての資格を持つ事ができる、のではないだろうか。
従って今現在新聞に対して最も批判的なブロガーこそが新聞に公正中立の根拠を与える事でそれを健全なものに補正し、更には将来経済的にも支えうる存在、なのかもしれない。という事で・・・

  • ネットは新聞を生み出すのか

というのをブログと新聞の関係性を考える上での最も有効なアプローチとして考えてみたわけなのだが、
さぁ果たして・・・






◆関連記事
http://mainasu.egoism.jp/ud/archives/2004/10/04/1700-134.html
http://miamoto.net/archives/000189.html
それでもジャーナリストは必要だ: マーケットの馬車馬
http://www.luggnagg.com/ibw/diary/archives/2004/12/post_64.html
Blogとマスメディア(あるいは、ネットは新聞を殺すのか?) - lethevert is a programmer


◆5/27追加
メディアビジネスのバリューチェーン(最終回): R30::マーケティング社会時評
メディアビジネスのバリューチェーン(最終回)にそえて。 - FIFTH EDITION
R30さんのところでもネットと新聞の融合が語られている。ちょっと難しくて分からないところもあるが基本的には「編集」をブログコミュニティのようなもの?に任せる、というような話で結構近い模様。下のFIFTH EDITIONさんとこの図が分かりやすい。
話は結局「新聞共同体」というようなとこに行き着きそうな気がする。


◆6/12追加
2ちゃんねる研究:2ちゃんねる・インターネット・マスメディア
ネット(主に2ちゃん)と既存メディアとの違いや意義について。非常に参考になります。