ネットと人間の関係性

アフォーダンス」という理論がある。既成概念を引っくり返すような物凄く面白い理論である。といってもオレも最近知ったばかりなのだが・・・。
量子論と複雑系のパラダイムというサイトのこことか、課題研究『モノの使いやすさとデザインの心理』この辺に詳しい。
要約するのは難しいが例えば

アフォーダンス理論によれば、私たちは「眼でみているのではない」し「耳で聞いているのもない」。極端な言い方をすると「見させられている」「聞かされている」のである。

というように説明されている。情報は物それ自体に無限に存在していて人(知覚者)はその中から必要ものをピックアップしているに過ぎない、というような話。

アフォーダンスは事物の「物理的」性質だけではない「動物的」な価値である。

「すり抜けられる隙間」、「登れる坂」、「掴める距離」は、アフォーダンスである。

例えば、紙一枚とっても、厚いものは手で破れないことをアフォードしてくるが、同時に持てるだろうことをアフォードしてくる。そして燃えるだろうことをアフォードして、更に臭いや温度、叩いたときの音までアフォードしてくる。

この「アフォードしてくる」という表現が多分この理論の本質を表していて、そこでは「主客の逆転」のような事が起こる、のだと思う。という事で一先ずこの話は置いておく。




ネットは常に変化する実体としての「生きているメディア」である。これがこのシリーズで言いたかった事なのだが、〈情報−実体〉概念は生きているメディア③ - ぶろしきここで言ったように関係性に基づいた概念である。そこで既存メディア、その中でも特に固定化の強い「新聞」との関係でネット(ブログ)を考えた。前回の記事がその一応の結論である。
ではネットと「人」の関係性はどう考えられるだろうか?
生きているメディア⑥ - ぶろしきここで論じたように既存メディアは社会を支える固定点として認識されている、あるいはそれを担っていると考えられ、ゆえにそれに対峙する「人」は実体として振舞う、あるいはそう「見なす」事ができる。
〈既存メディア(情報)−人(実体)〉
しかしネットはおそらくそれ自体が社会を支える固定点とはなりえない常に変化する実体、およそ最もマクロな視点での翻訳媒体、すなわち「脳」である。そうだとするとこの実体であるネットに対峙する「人」はどう見なされるのだろうか。
〈人(情報)−ネットメディア(実体)〉
と考えられるのではないか?という事。ここが非常に重要であるように思うのだ。なぜなら情報化社会はよく「情報化社会とはあらゆるものが情報化すること」と説明されるからだ。この説明は分かるようで分からない、いまいちうまくイメージする事ができない説明だった。少なくともオレには。
しかしネットを実体と見なした時、この説明の本質が掴めてくる。まさしく、

  • 「実体」たるネットに対峙する時、あらゆるものは「情報」と見なされる

という事なのじゃないかと思う。そしてこの「あらゆるもの」に当然「人」も含まれる。ネットが実体と見なされるなら、それに対峙する「人」は情報と見なされる、あるいはそう振舞う・・・のだとしたらそこで起こるのはやはり「主客の逆転」であるような気がするのだがどうだろうか?




ブログに書かれた記事は常に変化する、あるいはその可能性のある実体かもしれない。しかしそれを書いている「ブロガー」はどうか。それは「同一主体」と見なされているのじゃないか。例えばそれは新聞記事に記者の著名がなされず、その事によって社という同一主体が書いている建て前になっており、ゆえに「時間軸における同一性」を担保している。という事との関係。う〜ん・・・この辺は難しいな。
要するに。
オレはこのネットと人の関係を「アフォーダンス」という概念で考えると非常に面白いのじゃないかと思っているのである。元々アフォーダンス自体が「主客の逆転」のような話で更にネットと人の関係もやはり「主客の逆転」。それならそれは「反対の反対は賛成なのだ」という事じゃないかと考えたわけだ。
ここでは一先ずネットを主体として考えてみる。先に紹介したここの下の方にある図の中での「人間(知覚者)」の位置にネットを置くわけだ。そして「オブジェクト・環境」の位置にオフラインのネットの外部の世界、ここでは特に「人間(ブロガー)」を置く。
で、アフォーダンス理論によれば情報とは物それ自体に無限に存在している。それが知覚者によって、そしてある状況によってその中から選択、あるいは発見獲得されるものである。情報が知覚者に「アフォードしてくる」わけだ。
これをネットと人間、特にブロガーとの関係で考えると・・・

  • 情報とはブロガーそれ自体に無限に存在している。それがネットによって、そしてある状況によってその中から選択、あるいは発見獲得されるものである。つまりはブロガーがネットに「アフォードしている」

・・・と考えられないだろうか?




とここまで読んでもらって大変申し訳ないのだけど、この話に特に結論はなかったりする。一応生きているメディアに対して情報化する人間、更には固定点としての人間、というのを考えてたのだけど今の段階でまとまりそうにない。ので未完成なまま一先ずこれでこのシリーズは終わっておきたい。
ただ一つはっきりした事。
このシリーズの本当のテーマ、というよりそもそもこのブログのテーマが

  • 情報化社会は人を幸せにするのだろうか?

というものだという事。これは前にやった「ぱちもん」心理学研究所シリーズでの最初の命題

  • 果たしてブロガーに明るい未来はやってくるのだろうか?(特にひきこもりの)

というのも結局同じ事が疑問だったのだと今にして思う。そして結局このシリーズも結論に至らないまま放り出してしまった・・・。
現在がパラダイムシフトの時代、変革期である事はよく分かる。そしてそれがネットを中心とした情報革命である、というのも分かる。しかしそれが果たして人を幸せにするものなのかどうか、そこが本当は知りたい。というより実はそこを激しく疑っているのだ。オレはもちろん、おそらくは多くの人も。
という事でこれからもこの辺が常に裏テーマとしてあり続けるのだろうと思う。ついでにこの情報革命の主要な担い手と考えられるブロガー、そこに何とか「ひきこもり」も食い込んでいこう、というテーマもあったりするのだけど・・・でもまぁそれは書くよりもこうしてブログを書き続ける事、つまりは「行為」によってしか証明されえない、ような気もしている。