ブログ界は「銭湯文化」の正統後継者と成りえるのか?(後編)

前回の続き・・・


そもそも実名、本名とはなんだろうか?
一つはっきりしている事はそれが他者によって名付けられたもの、である事だ。これはおそらく国や文化を超えて世界的にもそうであると思う。(多分)自分の名前を自分で付けるなんて事は特殊な例外を除いてまずない。
ではこの他者による名付けの意味するものは?
おそらく名付けとは社会的な必要、要請に従ったものなのだろう。本質的には本人の為になされるわけではないという事。この事は例えばペットに名前を付ける事の意味を考えればよく分かると思う。名前など別になくともペット自身はまったく困らない。名前が必要なのは飼い主の方であって特に必要な場合にのみ付ける。が例えば金魚などなら付けない事の方が多いだろう。どういう場合に付けるのか?基本的にはそのペットを「家族」の一員として認めた場合ではないだろうか。そしてこの家族とは社会の最小の単位である。




あらゆる生き物は自然の状態では名前などないし必要ない。それは人においても同様で、オギャーと生まれたその時にはまだ裸の自然の状態であり当然名前などない。
そして生まれた後にまず最初に行う事が「名付け」であるという事が重要である。現在ではこれを生後14日以内に出生届とともに役所に提出する事になっている。
つまりこの名付けによって自然としての人は社会の一員として初めて認められる、すなわち社会的な存在と見なされる、という事だ。そしてそこで名付けられた名前は本名としてその人の「社会的自己」を生涯規定し続ける。




オレがネットの世界に触れたのは割りと最近の話なのだがそこで最初に行ったのもやはりハンドルネームを付ける、という行為だった。いや普通は名無しで書いてみたりするのかもしれないがオレはどうも名無しでは書きたくなかった。
だがこの自分で自分に名前を付けるというのは結構難しかった。かなり悩む。考えてみればこんな事は普通の人にはまず経験のない事だ。ネットの登場によって普通に行われるようになった本来特殊な行為である。そして自ら名付けたこのHNによって行われるコミュニケーションはとても新鮮だった・・・。
ではこの自分で自分に名前を付ける、という行為の意味するところは何だろう?
他者によって名付けられた名前が「社会的自己」を表すとすれば自ら付けるそれは「自然としての自己」を表すのではないだろうか。更には前者が客観的自己であるとすれば後者は主観的自己である。


〈本名〉=〈社会〉=〈客観〉
〈HN〉=〈自然〉=〈主観〉


自然の世界においてあらゆる生き物は「無名」であり自然としての人も「無名」であるのが本来である。同様にあらゆる生き物は「主観的世界」を生きており人の本質もこの主観的世界である事は養老先生の『唯脳論』においてもそして最近の脳科学の進歩によっても明らかとなってきている。我々は客観的世界を見ているのではなく脳によって構成された主観的世界を見ている・・・。
それならネットにおいて実名でなくHNを使う事の意味するものは、社会的見なしとしての衣服を脱ぎ去ることで自然としての身体が表現される、のと同様に社会的見なしとしての本名を脱ぎ去り自然としての自己に帰ること、になるのではないか。




現代は江戸時代と同じように、いやそれ以上に都市化された人工社会である。あらゆるものに社会的見なしが与えられ自然は徹底的に排除される。そして人に対してそれは客観的世界観が主観的世界観を排除する事、として表れているように思う。社会的な意味を持たない主観的な自然としての自己、には行き場がない。
そこに登場したのがネット、更には無名性を強く表す事のできるブログ、である。要するに無名性とは「社会的自己では無い本来自然な人間のあり方」という意味だ。そしてブログが文化と呼べるようなものになるのなら、かつて日本に成立した特殊な文化「銭湯文化」を継ぐものになるのが理想なのではないか、とオレは考える。いやそういうものになる事に最も意義を感じるしこれは希望だ。おそらく今問われているのは「どうなるか」ではなく「どうしたいのか」だ。
論争の発端となった実名派のドクター苫米地ブログ − Dr. Hideto Tomabechi Official Weblog - ライブドアブログでは

ブログは実名で公開すべきか、ハンドルネームなどの虚名でもいいかという質問を最近受ける。どちらにするのも個人の自由だろう。ただ、実名でブログを公開する勇気のない人は、ただの臆病者か、無責任な人間だと思う。日本の新聞に署名記事が少ないのは、いろいろな言い訳を聞くが、本来ジャーナリズムのあり方として間違っていると思うのと同様だ。

というのも別に間違っているとかいうつもりはない。だがこれにはこう反論したい。

  • 皆が服(実名)を脱いで裸(自然としての自己)でコミュニケーションしている場に服を着て入ってくるのは「野暮」である。

今のところは実名で書いている人が少ないがゆえに匿名派が優勢ではある。だがもし今後実名が増えていく事があれば我々は裸である事を恥ずかしく思うようになるかもしれない。果たしてどうなるのか、いやどういう世界にしたいのか・・・。
といっても既にネットにおいての基本的な「場」は出揃っているようにも思う。


2ちゃん−匿名性
ブログ −無名性
SNS −実名性


それぞれこういった性質、属性を持っているように思うので今後これを基本にして「住み分け」していくんじゃないかとも考えている。




今後ブログ界が「銭湯文化」の正統後継者と成り得るのかどうか、そういった場として機能するのかどうかはそこに参加する人の一人一人がどうしたいのか、によって決まってくるのだと思う。前回【番外編】で紹介した記事はおそらくその辺に関係する話なのだ。
という事でひきこもりブロガーであるオレもとりあえず一票入れておきたい。






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